罪に死んで、義に生きる(3) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1ペテロ2:24 わたしたちが罪に死んで、義に生きるために、彼(キリスト)は わたしたちの罪を、ご自身の体において、木の上で担われました。その方の打た れた傷によって、あなたがたはいやされたのです。 ローマ6:11 ですから、キリスト・イエスの中で、あなたがたも、自分は罪に対 して死んでいるが、神に対しては生きていることを認めなさい。(13節)またあな たがたの肢体を不義の武器として、罪にささげてはなりません。むしろ、あなた がた自身を死人の中から生きている者として、神にささげ、そしてあなたがたの 肢体を義の武器として、神にささげなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第3編) さて、わたしたちは、なぜペテロが「義に生きる」という表現を用いるのか、問 う必要があります。これは神の統治上の要求を満たすことと関係があります。実 は、神の統治はただ一つのこと、義を要求します。こういうわけで、ペテロの第 二の手紙第3章13節は言います、「しかし、わたしたちは彼の約束にしたがって、 義が住む、新しい天と新しい地を待ち望んでいます」。ペテロの第一の手紙第2 章23節では、主イエスが絶えず、義しく裁く方にいっさいをゆだねておられたこ とを見ます。次に24節でペテロは、わたしたちが義に生きるべきであることを示 します。ここのペテロの観念は統治的なものです。義は神の統治の事柄です。わ たしたちが救い主によって救われたのは、神の統治の義なる要求に符合する生活 をするためです。 神は義であり、彼の統治は義の上に設立されます。詩篇第89篇14節は、義は神の 御座の土台であると言います。ですから、彼の統治の下に生きている神の民とし て、わたしたちは義なる生活を持たなければなりません。わたしたちは義に生き なければなりません。しかし、わたしたち自身ではこのような生活をすることが できないので、救い主はわたしたちを救って、義の生活、神の統治の義なる要求 を満たす生活をさせられます。 わたしたちの救い主キリストは、木の上でわたしたちのすべての罪を担われ、そ してそこでわたしたちのために死なれたことを認識するのは、重要なことです。 今や彼の死はわたしたちを罪から分離し、わたしたちを生かして、わたしたちが 義に生きるようにします。自然に、わたしたちは神の統治の下にあり、義に生き るので彼の統治に何の問題も持たなくなります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ペテロの第一の手紙(二)」(1986 年版)メッセージ第21編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。