罪に死んで、義に生きる(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1ペテロ2:24 わたしたちが罪に死んで、義に生きるために、彼[キリスト]はわ たしたちの罪を、ご自身の体において、木の上で担われました.その方の打たれ た傷によって、あなたがたはいやされたのです。 ローマ6:11 ですから、キリスト・イエスの中で、あなたがたも、自分は罪に対 して死んでいるが、神に対しては生きていることを認めなさい。(13節)またあな たがたの肢体を不義の武器として、罪にささげてはなりません。むしろ、あなた がた自身を死人の中から生きている者として、神にささげ、そしてあなたがたの 肢体を義の武器として、神にささげなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第2編) わたしたちの死んだ、堕落した性質によれば、わたしたちの意図は罪に向かって います。しかし、今やキリストが死んでわたしたちの死をいやし、わたしたちを 生かしたので、わたしたちは別の意図を持ちます。わたしたちの中にあるキリス トの命のゆえに、わたしたちは常に義に向かおうとする意図、義に向かおうとす る傾向を持って生きます。これがわたしたちの救い主、すなわち、十字架上で死 んでわたしたちを終わらせ、わたしたちの死の傷をいやされた方です。 十字架の主観的な面は、今日のわたしたちの経験において、その霊によって継続 しています。命を与える霊は絶えずわたしたちの内側で働いて、わたしたちの存 在の中でキリストの十字架の主観的な面を遂行しています。わたしたちは日ごと に、キリストの十字架の内側の働きを受けており、毎日生かされて、義に生きて います。ですから、罪に打ち勝つことは困難ではありません。なぜなら、キリス トの死を通して、わたしたちは罪から離されているからです。彼の死は、わたし たちと罪との間に分離する線を引きました。罪から離されているので、今やわた したちは生きています。わたしたちは奮闘したり、自分自身を活気づけようとし たりする必要はありません。わたしたちはただ生きるだけであり、この生きるこ とには常に、義に向かう傾向があります。これが、わたしたちの救い主が毎日わ たしたちを救う経験です。ペテロの言葉をこのように理解することは、わたした ちの経験にしたがっています。 わたしたちは客観的な十字架だけでなく、主観的な十字架も同様に持つべきです。 客観的な十字架は、わたしたちの経験においてわたしたちにとって主観的になる 必要があります。これは、わたしたちの内側の命を与える霊の働きによります。 わたしたちが主の御名を呼び、彼と交わりを持つとき、命を与える霊はわたした ちの内側で活動します。自然にわたしたちは、わたしたちと罪との間に分離を作 る十字架の主観的な働きを経験します。それはわたしたちが自動的に義に生きる ためです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ペテロの第一の手紙(二)」(1987年版) メッセージ21から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されていま す。