罪に死んで、義に生きる(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1ペテロ2:19 わたしたちが罪に死んで、義に生きるために、彼(キリスト)はわ たしたちの罪を、ご自身の体において、木の上で担われました。その方の打たれ た傷によって、あなたがたはいやされたのです。 ローマ6:11 ですから、キリスト・イエスの中で、あなたがたも、自分は罪に対 して死んでいるが、神に対しては生きていることを認めなさい。(13節)またあな たがたの肢体を不義の武器として、罪にささげてはなりません。むしろ、あなた がた自身を死人の中から生きている者として、神にささげ、そしてあなたがたの 肢体を義の武器として、神にささげなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第1編) すでに指摘したように、「罪に死んで」という句は、文字どおりには罪から離れ ることを意味します。キリストが十字架上でわたしたちの罪を担って死なれたと き、その死は多くの事を完成しました。キリストの死はわたしたちを終わらせま した。この終わらせることは、わたしたちを罪から離れさせることができます。 人々が罪の行為から、あるいは罪の性質から離れる最上の方法は、彼らが死に渡 されることです。人はどれほど多くの罪を犯しても、いったん彼が死ぬと、死は 彼を罪から分離します。ペテロは罪から離れることについて語ります。パウロは、 罪から解放されている死んだ人について語ります。キリストの死を通して、わた したちは罪から離れ、義に生きることができます。一見すると、罪から離れるこ とはわたしたちを終わらせるかのようです。実は、それはわたしたちを生かして、 わたしたちが義に生きるようにするのです。 すでに指摘したように、キリストが打たれた傷によってわたしたちはいやされま した。これは、彼の死がわたしたちの死をいやすことを意味します。24節は、堕 落した人として、わたしたちは死んでおり、また罪の行為に満ちていたことを示 します。しかし、キリストはわたしたちの罪の行為をご自身の上に置き、また木、 十字架の上にそれらを掛けました。そこにおいて彼はわたしたちのすべての罪の 行為のために神の義しい裁きを受けられました。十字架上でのキリストの死は、 打たれた傷でした。その打たれた傷、その死は、わたしたちの死をいやしました。 今わたしたちは生きたものとなりました。一方で、わたしたちをいやすキリスト の打たれた傷は、彼の死を通してわたしたちを罪から離れさせます。もう一方で、 このいやしはわたしたちを生かし、わたしたちが義に生きるようにします。 (明日につづく) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ペテロの第一の手紙(二)」(1987年版) メッセージ21から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されていま す。