不当に苦しめられる時、神を享受し、表現する(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1ぺテロ2:19 だれかが不当に苦しめられても、神のことを覚えて悲しみを耐え 忍ぶなら、これは恵みです。(20節)あなたがたが罪を犯して打ちたたかれ、それ を耐え忍んだとしても、何の誉れがあるでしょうか? しかし、あなたがたが善 を行なって、苦しみを耐え忍ぶとしたら、これは神と共にある恵みです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 19節と20節で彼が言うことに基づいて、ペテロはさらに進んで21節で言います、 「あなたがたが召されたのはこのためです。なぜなら、キリストもあなたがたの ために苦しみを受け、あなたがたが彼の足跡に従うようにと、原型を残されたか らです」。地上でのキリストの生活は、この恵みの原型です。 21節は、「あなたがたが召されたのはこのためです」という言葉で始まっていま す。あなたは不当に苦しむために召されたと考えたことがあるでしょうか? 21 節の「この」という言葉は、不当な苦しみ、すなわち、19節と20節で述べられた、 善を行なって苦しみを受けることを言います。わたしたちは、王国また神の栄光 へと召されたと聞くとうれしいでしょう。これらは驚くべき事柄です。しかし21 節から、わたしたちが不当な扱いを受けるために召されたことを認識した人は、 若者であろうと年長者であろうと、多分わたしたちのうちのごくわずかでしょう。 19節と20節に記されているように、わたしたちが召されたのは、恵みを享受し、 また神を表現するためでした。これが意味することは、わたしたちが苦難へと召 され、その結果、それにおいてわたしたちが恵みとしての神の享受を持ち、また 彼を表現するということです。環境がどうであれ、神はわたしたちの恵み、わた したちの内なる享受です。この神は、わたしたちの恵みです。この享受は、わた したちを動機付けます。そしてわたしたちの外側の表現、他の人に見える表現と なります。わたしたちの内側から表現されたこの恵みを観察する人たちは、わた したちの顔に、わたしたちの態度に、またはわたしたちの周りの雰囲気に、何か 引き付けるものを見ることができるでしょう。彼らは、彼らの見る表現されたも のが、喜ばしく、また好ましいと感じるでしょう。何度も何度もわたしたちが指 摘したように、これが恵みです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ペテロの第一の手紙(二)」(1987年版) メッセージ20から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されていま す。