主はわたしたちのすべての罪を担われた ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の所に来られるのを見て言った、 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!……」。 ヘブル9:28 キリストも、多くの人の罪を担うために、ただ一度ささげられまし たが……。 10:10 そのみこころによって、イエス・キリストの体が一度限りささげられた ことを通して、わたしたちは聖別されたのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― もしクリスチャンが不注意であり、不幸にも罪を犯してしまったなら、「違犯に 陥った」なら、どうすればよいのでしょうか? どのようにすれば神との交わり が回復されるのでしょうか? この問題を解決するのに、第一に見なければなら ないことは、主イエスが十字架上に釘づけられた時、彼はわたしたちのすべての 罪を担われたということです。わたしたちが一生において犯す罪、すなわち、過 去のものだけでなく、現在のものも、将来のものも、主は十字架上で完全にわた したちに代わって担われたのです。 しかし、わたしたちが主を信じたその日、神によって照らされた時に、わたした ちが感じた一切の罪とは、わたしたちが信じたその日以前の罪を指しています。 神によって照らされた罪をわたしたちは感じることができるだけで、犯していな い罪を感じることはできません。ですから、主イエスの担われた罪とわたしたち の感じる罪とは、同じではありません。主イエスは十字架上でわたしたちのすべ ての罪を担われましたが、わたしたちはただわたしたちの過去に犯した罪を見る だけなのです。わたしたちは知る必要がありますが、わたしたちが感じていない 罪も主イエスの贖いの中に含まれているのです。 言い換えれば、主は十字架上でわたしたちの全生涯の罪を担われたということで す。わたしたちが救われた時、経験上では、わたしたちは今までに犯した罪が赦 されただけだと感じるにすぎないかもしれませんが、実は、主はわたしたちのす べての罪を担われたのです。わたしたちが救われた後に犯す罪でさえも、その中 に含まれているのです。わたしたちはまずこの事実をはっきりと知る必要があり、 そうしてこそ交わりを回復する道をはっきりと知ることができます。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第49巻「初信者を成就するメッセージ(二)」(1999年版) メッセージ第21編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。