神の命がわたしたちの中にあるので罪を犯すことがない ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1ヨハネ2:1 わたしの小さい子供たちよ、わたしがこれらの事を書き送るのは、 あなたがたが罪を犯すことがないためです。もしだれかが罪を犯すなら、わたし たちには御父と共にある弁護者、義人イエス・キリストがあります。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― わたしたちは救われた後、再び罪を犯すべきではありません。ヨハネによる福音 書第8章では、主イエスは一人の淫婦を赦され、その場で彼女に言われました、 「今後はもう罪を犯してはいけない」(11節)。ですから、わたしたちが救われる と、主はわたしたちに、もう罪を犯してはいけないと一つの命令をされます。す でに救われたわたしたちは、断じて罪の中に生きてはいけません。 クリスチャンであるなら、罪を犯してはいけませんし、断じて罪の中に生きては いけませんが、クリスチャンは罪を犯さないことができるのでしょうか? でき ます! クリスチャンは罪を犯さないことができるのです。なぜなら、わたした ちの中には神の命があるからです。この命は罪を犯さず、この命は少しも罪に譲 歩することがありません。神が聖であられるように、この命も聖です。この命は わたしたちの中で、罪に対して特に鋭敏な感覚をわたしたちに持たせます。もし わたしたちがこの命の感覚にしたがって生きるなら、もしこの命の中で生きるな ら、わたしたちは罪を犯すことがありません。 しかし、クリスチャンにも罪を犯す可能性があります。なぜなら、わたしたちは まだ肉体の中にいるからです。もしその霊にしたがって行動しないなら、もし命 の中で生きないなら、いつでも罪を犯す可能性があります。ガラテヤ人への手紙 第6章1節は言います、「兄弟たちよ、たとえだれかが、何かの違犯に陥ったとし ても……」。ヨハネの第一の手紙第2章1節は言います、「わたしの小さい子供た ちよ、……もしだれかが罪を犯すなら」。クリスチャンは依然として「違犯に陥 る」ことがあり得ること、依然として罪を犯すことがあり得ることを、見ること ができます。ヨハネの第一の手紙第1章8節は言います、「もし、自分には罪がな いと言うなら、それは自分を欺いているのであって」。10節は言います、「もし、 わたしたちが罪を犯したことがないと言うなら、神を偽り者とするのであって」。 ですから、経験の上で、クリスチャンは誤って罪に陥ることがあるのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第49巻「初信者を成就するメッセージ(二)」(1999年版) のメッセージ第21編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版され ています。