前味わいとしての恵みと、来たるべき完全な味わい ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1ペテロ1:13 こういうわけで、あなたがたは思いの腰に帯を締め、冷静になっ て、イエス・キリストの出現の時に、あなたがたにもたらされる恵みの上に望み を完全に置きなさい。 ヨハネ1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと実際はイエス・キリス トを通して来たからである。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 恵みは、主の最初の到来によってわたしたちにもたらされました(ヨハネ1:17)。 それは彼の第二の到来によって完成されます。わたしたちは、そのような恵みの 上にわたしたちの望みを置くべきです。今日わたしたちが主の何を享受しようと も、それは比較的、小さな部分です。聖書では、これは前味わいと呼ばれます。 それはまだ完全な味わいではありません。この時代は、前味わいの時代です。し かし、主イエスが戻ってこられる時、わたしたちは完全な味わいを享受します。 わたしたちは前味わいを享受している間、わたしたちの望みを来たるべき完全な 味わいの上に置きます。 前味わいの性質、本質、実際は、完全な味わいのそれと同じです。違いは量です。 今日わたしたいは、見本、前味わいとしての小さな部分を享受しています。最終 的にわたしたちは完全な分を享受し、また完全な味わいを経験します。ですから、 一方においてわたしたちは今、恵みを享受しています。他方において、わたした ちは来たるべき完全な味わいを期待しています。これが意味することは、わたし たちは前味わいを享受している時、完全な味わいを持つことを期待しているとい うことです。これによってわたしたちは、来たるべき完全な味わいの上にわたし たちの望みを置きます。来たるべき完全な味わいは、この唯一の恵みの究極的完 成となります。 この恵みは、単に無代価の好意ではありません。それはわたしたちの全き享受の ための、わたしたちの満ち満ちた救いとしての三一の神です。今日わたしたちは、 前味わい、小さな部分の享受しか持っていませんが、完全な味わいが来つつあり ます。わたしたちの望みをこの来たるべき完全な味わいの上に置きましょう。そ れは恵みの究極的完成となります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ペテロの第一の手紙(一)」(1986年版) メッセージ11から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されていま す。