一人のパースンと一つの道を持つ(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ2:20 もしあなたがたがキリストと共に死んで、この世の初歩的教えか ら離れたのなら、なぜこの世に生きているかのように、あなたがた自身を規定に 従わせるのですか? すなわち、(21節)手に取るな、味わうな、触れるな、 (22節)そのようなものはすべて、使えば朽ち果てるものであり、人の戒めと教え によるものです。(23節)そのようなものは、ひとりよがりの礼拝と、謙そんと、 体の苦行とによって、いかにも知恵があるかのような好評を得ますが、肉の放縦 を抑えるには何の価値もありません。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 第2章20節でパウロは、わたしたちがキリストと共に死んで、この世の初歩的教え から離れたことを指摘します。これらの初歩的教えは、ユダヤ教の儀式、異教の 規定、哲学を含んでいます。それらはまた神秘主義や禁欲主義も含んでいます。 キリストと共に、わたしたちはこれらのこの世の初歩的教えに対して死にました。 キリストが十字架につけられたとき、わたしたちも十字架につけられました。彼 の十字架の中で、わたしたちはこの世の初歩的原則から解放されました。 21節でパウロはこれらの規定を幾つか挙げています、「手に取るな、味わうな、 触れるな」。これらは物質的事柄における規則、規定です。これらの規則はそれ ぞれ動くもの、食べられるもの、触れられるものを指しています。手に取ること、 味わうこと、触れることは、実際上あらゆる種類の行動を含んでいます。これら の規定は禁欲主義の実行と関係があるので、手に取ること、味わうこと、触れる ことに関する規定に従うことは、禁欲主義を実行することです。 一人のパースンと一つの道を持つ者として、わたしたちは規定を必要としません。 しかしながら、わたしたちは夜ベッドに行くとき、十字架を経過すべきです。こ れは、その日に何を行ない、何が起こったとしても、十字架がすべてのことを顧 みることを意味します。仮に、午後あなたがある事で、妻あるいは夫によって不 愉快になるとします。ベッドに行くとき、あなたは十字架を不愉快な感覚に適用 する必要があります。こうするなら、不愉快な感覚は消え去ります。これは、わ たしたちの道が十字架であって、禁欲主義や自己の虐待ではないことを示します。 わたしたちはすでにキリストの中で死んだことを認識して、十字架の意識をもっ て夜ベッドに行くべきです。十字架を通してベッドに行き、キリストの中で死ん だという認識をもって寝ることを実行するなら、翌朝わたしたちは新しいパース ンとして、復活の中で目覚めるでしょう。わたしたちはキリスト、すべての事に 相対する唯一のパースンを持っているだけではありません。わたしたちはまた十 字架を持っています。これは、他のすべての道に相対する唯一の道です。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・コロサイ人への手紙(三)」(1980年版) メッセージ26から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されていま す。