キリストの中にある割礼は、禁欲主義に相対する ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ2:11 またあなたがたは、その方の中で、手によらない割礼をもって割 礼されました。すなわちキリストの割礼の中で、肉の体を脱ぎ捨てました。 (12節)あなたがたは、彼と共にバプテスマの中で葬られ、またその中で、彼を死 人の中から復活させた神の活動による信仰を通して、彼と共に復活させられたの です。(20節)もしあなたがたがキリストと共に死んで、この世の初歩的教えから 離れたのなら、なぜこの世に生きているかのように、あなたがた自身を規定に従 わせるのですか? すなわち、(21節)手に取るな、味わうな、触れるな、(23節) そのようなものは、ひとりよがりの礼拝と、謙そんと、体の苦行とによって、い かにも知恵があるかのような好評を得ますが、肉の放縦を抑えるには何の価値も ありません。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 葬られ終わらせられて、今や墓の中で安息している人たちに、禁欲主義の必要は ありません。彼らが自分の体を虐待する何の理由もありません。霊的原則によれ ば、わたしたちは終わらせられて、禁欲主義が対処しようとする肉の体を脱ぎ捨 ててしまったのです。あらゆる種類の禁欲主義は、肉の情欲を対処しようとしま す。禁欲主義の教えと実行によれば、肉体を虐待することが情欲を取り除き、放 縦を抑制するのです。これが禁欲主義の基本原則です。インドでは、ある人たち は針のベッドに座ることによって禁欲主義を実行します。肉の情欲を覚える時は いつも、彼らは針に身を押しつけ、自分に課する苦痛が情欲を制限すると考えま す。この同じ原則が、おいしい食物を食べることについての禁欲的な規則を説明 します。禁欲主義によれば、食物を楽しむことは肉を放縦することです。こうい うわけで、禁欲主義者はまずい食物を選ぶように教えられています。 この肉体の虐待は、「肉の放縦を抑えるには何の価値もありません」(2:23)。禁 欲主義のさまざまな実行は、肉の放縦を抑えることでは何の効果もありません。 コロサイ人への手紙第2章でのパウロの概念は、キリストにある信者たちはキリ ストの割礼の中で割礼され、それはキリストの死によって完成され、その霊によ って適用されるので、またこれは彼らがその中に葬られ終わらせられた割礼であ るので、禁欲主義を実行する何の必要もないというものでした。肉の放縦を抑え ようとして肉体を虐待することは愚かであり、何の役にも立ちません。確かに、 キリストの中にある割礼は禁欲主義に相対します。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・コロサイ人への手紙(三)」(1980年版) メッセージ22から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されていま す。