真の割礼は心の割礼であって、霊においてである ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ2:11 またあなたがたは、その方[キリスト]の中で、手によらない割礼 をもって割礼されました。すなわちキリストの割礼の中で、肉の体を脱ぎ捨てま した。 ローマ2:28 なぜなら、外見上のユダヤ人である者がユダヤ人ではなく、また外 見上の肉における割礼が割礼ではないからです。(29節)むしろ内側でユダヤ人で ある者こそユダヤ人であり、また割礼は心の割礼であって、文字においてではな く、霊においてです。そして、その人の賞賛は人々からではなく、神から来るの です。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 11節でパウロは言います、「またあなたがたは、その方の中で、手によらない割 礼をもって割礼されました。すなわちキリストの割礼の中で、肉の体を脱ぎ捨て ました」。ここでパウロは、手によらない割礼のことを語っています。これは、 ユダヤ人が実行していたもの、すなわちナイフで行なわれていたものとは確かに 異なります。その肉体の割礼に加えて、もう一種類の割礼、すなわち、キリスト の中の割礼、手によらない割礼があります。これは霊的な割礼であり、正当なバ プテスマを指しています。それは、キリストの死の効力ある価値によって肉の体 を脱ぎ去ることです。これから見ますが、これは禁欲主義に相対します。 キリストの中の割礼は、キリストの死とその霊の力を含みます。キリストが十字 架上に釘づけられた時、彼の十字架は真の、実際的な、宇宙的な割礼でした。彼 の割礼はすべての消極的な事柄を断ち切りました。これらの消極的な事柄は、わ たしたちの肉、天然の人、自己を含んでいます。しかしながら、キリストの死と 共に、わたしたちは力としてのその霊を必要とします。もしわたしたちがキリス トの十字架を持つだけで、力としてのその霊がなければ、キリストの十字架をわ たしたちに適用し、その効果をわたしたちの上に働かせる方法はないでしょう。 キリストの十字架はその霊によって実際となり、また効果があるのです。力とし てのその霊によって、キリストの十字架はわたしたちに適用されます。そしてそ の霊の力の下で、わたしたちは実際的に、また実行的に割礼されます。これがキ リストの中の割礼、手によらない割礼です。それが手によらない割礼であるのは、 キリストの死によって成就されたからです。それは力ある霊によって適用され、 執行され、遂行されます。これが、わたしたちすべてが受けた割礼です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・コロサイ人への手紙(一)」(2004 年版)メッセージ第22編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。