キリストから奪い去られることに気をつける(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ2:8 だれもあなたがたを、哲学とむなしいだましごとによって、とり ことして奪い去ることのないように、気をつけなさい。それは人々の伝統にした がい、この世の初歩的教えにしたがうものであって、キリストにしたがってはい ないのです。(9節)なぜなら、キリストの中には、神たる方の全豊満が肉体のか たちをもって住んでいるからです。(10節)そしてあなたがたは、キリストにあっ て満たされているのです。彼はすべての支配と権威のかしらです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) パウロは、哲学とむなしいだましごとはキリストにしたがっていないと言って、 8節を結んでいます。キリストはすべての真の知恵と知識の支配的原則であり、 すべての真の教えの実際です。また、神に受け入れられるあらゆる概念の唯一の 物差しです。コロサイ人への手紙は、わたしたちのすべてとしてのキリストに焦 点づけられています。キリストにしたがわないことは、まずわたしたちがキリス トを命としないことを意味します(3:4)。第二に、それはわたしたちがからだの かしらとしてのキリストに結び付いていないことを意味します。さらに、それは 神の奥義としてのキリストを知らないこと(2:2)、栄光の望みとしての内住のキ リストを経験しないということです(1:27)。最後に、キリストにしたがわないこ とは、わたしたちがキリストにあって歩かないことを意味します(2:6)。 わたしたちがキリストを命とし、からだのかしらとしての彼に結び付き、神の奥 義としての彼を知り、栄光の望みとしての彼を経験し、すべてを含む霊としての 彼にあって歩くなら、何ものによっても、だれによっても、欺かれることはない でしょう。これらの面でキリストを経験していない人たちは、容易に欺かれ得る のです。たぶらかされ、とりことして奪い去られた人たちの状態を分析するなら、 彼らがキリストをこの五つの面で経験していなかったことを認識するでしょう。 彼らは、キリストだけが神のエコノミーのすべてであることを認識しませんでし たし、キリストを彼らの命とせず、彼らのかしらとしませんでした。さらに、彼 らは栄光の望みとしての内住のキリストを経験しませんでしたし、キリストの中 で生き、行動し、存在しませんでした。その結果、彼らは無防備であり、最終的 にたぶらかされ、奪い去られて、捕虜となりました。欺きに対するわたしたちの 防衛は、キリストです。彼はわたしたちの命、かしら、神の奥義、栄光の望み、 わたしたちがその中を歩く良き地です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・コロサイ人への手紙(一)」(2004 年版)メッセージ第21編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。