キリストから奪い去られることに気をつける(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ2:8 だれもあなたがたを、哲学とむなしいだましごとによって、とりこ として奪い去ることのないように、気をつけなさい。それは人々の伝統にしたが い、この世の初歩的教えにしたがうものであって、キリストにしたがってはいな いのです。(9節)なぜなら、キリストの中には、神たる方の全豊満が肉体のかた ちをもって住んでいるからです。(10節)そしてあなたがたは、キリストにあって 満たされているのです。彼はすべての支配と権威のかしらです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) わたしたちは、だれもわたしたちを、哲学によって、とりことして奪い去ること のないように、気をつける必要があります。コロサイの信者たちがとりことして 奪い去られるのに用いられた哲学は、グノーシス主義、すなわちユダヤ哲学と東 洋哲学とギリシャ哲学との混合したものでした。この節の哲学とむなしいだまし ごとは、「人々の伝統にしたがい、この世の初歩的教えにしたがうものであって、 キリストにしたがってはいないのです」。コロサイでのグノーシスの教えの源は、 人々の伝統でした。それは、啓示された神の文書に基づくものではなく、人の伝 統的な慣行に基づいていました。多くの文化的伝統は良いものです。そうでなけ れば、だれもそれらに注意しないでしょう。わたしたちは鋭い識別力を持って、 カトリック主義や宗派の伝統に欺かれないようにする必要があります。わたした ちが従うべき一つの原則は、すべてのことを聖書でテストするということです。 わたしたちは聖なる御言における神の直接の啓示にのみ注意すべきであって、人 々の伝統にしたがっているものには何も注意すべきではありません。もし聖書の 神聖な啓示に符合していなければ、伝統として人々から受け継がれてきたものは 何も受け入れる必要はありません。 ある機会に、わたしはあるカトリック信者に対してマリア礼拝の誤りを指摘し、 これは聖書にしたがっていないことを示しました。それにもかかわらず、彼らは、 マリア礼拝はカトリックの教えにしたがっていると言いました。このような実行 は聖書にしたがっていないのですが、カトリック教徒は伝統のゆえにそれに従う のです。人々の伝統は、宗派の中にも、単立のクリスチャングループの中にもあ ります。そこでは多くの信者たちが、神の御言よりも人々の伝統に注意していま す。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・コロサイ人への手紙(一)」(2004 年版)メッセージ第21編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。