見るための光を必要とする ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ1:4 彼の中に命があった。この命は人の光であった。 詩36:9 いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るか らです。(新改訳) ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 知識は光とは全く異なっています。光を持つ人には必ず知識がありますが、知識 を持つ人に必ずしも光があるとは限りません。目の不自由な人が持つ色について の知識と、子供が持つ色についての経験との間には、大きな相違があります。目 の不自由な人は色についての知識は持っているかもしれませんが、色を一度も見 たことがないのです。子供は色についての知識は持っていないかもしれませんが、 自分の経験から色がどのようなものかを知っています。信者が今日、光ではなく 知識に対して多くの注意を払っているのは残念です。 罪の認識は、知識の問題ではなく、光の問題です。一人の学生が、有名な聖書解 説者であるベンガル氏に次のように言いました、「わたしは、最近ローマ人への 手紙から罪の教理を発見しました」。すると、ベンガル氏は学生を見てこのよう に言いました、「あなたは罪の教理を今日初めて知ったとでも言うのですか?  あなたは日常の経験から、あなた自身全体が罪であることをすでに認識している べきです!」。 神の光を受けるために、わたしたちは神に近づかなければなりません。わたした ちは、神に近い人でなければならず、また神に近づく人でなければなりません。 なぜなら、神だけが光であるからです。彼が光の源です。わたしたちが彼に近い とき、また彼に近づくとき、光を受けます。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第41巻「特別集会、メッセージ、談話の記録(一)」 (1998年版)メッセージ第2編から引用されています。いずれも日本福音書房から 出版されています。