苦闘して、心を慰める(1)

――――――――――――――聖書の節(回復訳)――――――――――――
コロサイ2:1 わたしはあなたがたとラオデキヤにいる人たちのために、また、
わたしの顔を肉体において見たことがないすべての人のために、どれほど大きな
苦闘をしているか、あなたがたに知ってもらいたいのです。(2節)それは、彼ら
の心が慰められ、彼らが愛の中で結び合わされ、理解力から来る全き確信のあら
ゆる豊富へと至るため、すなわち、神の奥義なるキリストを知る全き知識へと至
るためです。

―――――――――――――――務めの言葉―――――――――――――――
パウロは、自分が格闘したのはコロサイ人やラオデキヤ人が第1章で与えられた
キリストのビジョンを見るためであったとは言っていません。わたしの観念によ
れば、これが彼の言うべきことでした。もし2節がこのように書かれていたなら、
わたしが理解するのははるかに容易であったでしょう。それにもかかわらず、パ
ウロは、自分が苦闘したのは聖徒たちが霊を訓練して、自分がキリストに関して
彼らに交わったことを見るためであったとは言いませんでした。彼が苦闘したの
は、彼らの心が慰められるためでした。

なぜコロサイ人の心が慰められ、愛の中で結び合わされ、理解力から来る全き確
信のあらゆる豊富へと至る必要があったのでしょうか? 何年もかかってようや
く、わたしはこの問題に答えることができるようになりました。確信とは二つの
事を暗示しています。それは信仰と知識です。わたしたちは信仰と知識を持つ時、
信じることについての把握を持ちます。この把握はわたしたちの確信となります。
パウロが格闘したのは、コロサイ人の心が全き確信を持つためでした。

コロサイ人への手紙では、心が重要な意義を持っています。ここでパウロは、キ
リストに関する啓示を受けることでの心の重要性を強調します。パウロは、キリ
ストの中で完全に成長した人をささげようとするなら、彼らの心の状態について
関心を持たなければならないことを知っていました。

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新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、
ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・コロサイ人への手紙(一)」(2004
年版)メッセージ第17編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版
されています。