主のものにふさわしく歩く ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ1:10 主のものにふさわしく歩いて、すべての事で主を喜ばせ、あらゆ る善いわざで実を結び、神を知る全き知識によって成長し。 マタイ3:17 すると見よ、天からの声が言った、「これはわたしの子、愛する者、 わたしは彼を喜ぶ」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― ある人たちは、主のものにふさわしく歩くとは、へりくだって、立派で、寛容に なることであると考えます。しかしながら、ふさわしい歩みとは、わたしたちが キリストを生きる中での歩みです。わたしたちはへりくだって、立派で、寛容で あっても、キリストによって生きていないことがあり得ます。ただキリストを生 かし出すことによってのみ、わたしたちは主のものにふさわしく歩くことができ ます。キリストが神のみこころであり、彼がわたしたちの歩みであるべきです。 主のものにふさわしい歩みは、「すべての事で主を喜ばせ」ます。それはすべて の面で主を喜ばせます。父なる神は、御子を喜ばれます(マタイ3:17)。ガラテ ヤ人への手紙第1章15節と16節でパウロは、神は喜んでキリスト、御子を自分の 中に啓示されたと言っています。わたしたちがキリストを生きることほど、父な る神を喜ばせるものはありません。キリストがなければ、何も御父を喜ばせるこ とはできません。 わたしたちが真に幸いである唯一の時とは、わたしたちがキリストを生きている 時です。たとえ天然的にへりくだっていて親切であったとしても、わたしたちは 幸いではありません。しかし、キリストをわたしたちの命またパースンとし、彼 を生かし出すなら、わたしたちは地上で最も幸いな人になるでしょう。キリスト を生きることは御父を喜ばせるだけでなく、わたしたちをも喜ばせます。最も喜 ばしいことはキリストを生きること、キリストを享受すること、キリストを経験 することです。 キリストは神のみこころ、またわたしたちの歩みであるだけでなく、あらゆる善 いわざ、神を知る全き知識でさえあります。再び、キリストがすべてを含んでい ることがわかります。コロサイ人への手紙の中に入り込めば入り込むほど、わた したちはますます、キリストが望み、真理、恵み、神のみこころ、わたしたちの すべてであることを見ます。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・コロサイ人への手紙(一)」(2004 年版)メッセージ第3編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。