神のみこころを知る ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ1:9 こういうわけで、わたしたちもこの事を聞いた日から、あなたが たのために絶えず祈り、そして願っています。どうかあなたがたが、あらゆる霊 的知恵と理解力において、みこころを知る全き知識で満たされ。 ピリピ3:8 しかしさらに、わたしはまた、わたしの主キリスト・イエスを知る 知識の卓越性のゆえに、すべての事を損失であると勘定します。その方のゆえに、 わたしはすべての事で損失を被りましたが、それらをちりあくたと勘定します。 それは、わたしがキリストを得るためであり。(10節)キリストと彼の復活の力と 彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 何年も前、若い聖徒たちが結婚や就職などの事柄について相談してきた時、わた しはコロサイ人への手紙のこの節(1:9)に言及しました。わたしは、彼らが神の みこころを知るには霊的知識を追い求めるべきであると告げました。しかし、こ この神のみこころは、結婚、仕事、住まいなどのような事柄に焦点があるのでは ありません。それは、わたしたちの分としてのすべてを含むキリストに関するも のです。わたしたちに対する神のみこころは、わたしたちがすべてを含むキリス トを知り、経験し、わたしたちの命として生きることです。このようにキリスト を知ることが、神のみこころの全き知識を持つことです。 神のみこころは深遠であり、わたしたちがすべてを含むキリストを知り、経験し、 生きることと関係があります。9節でパウロは、コロサイ人がだれと結婚し、ど こに住み、どの職業に就くべきかを知るようにと祈っていたのではありません。 彼の心はそのようなさ細な事柄に占有されていたのではありません。この節での 神のみこころは、キリストのことを言っています。コロサイ人がユダヤ教の儀式、 異邦人の規定、人の哲学に従うことが、神のみこころではありませんでした。さ らに、彼らが禁欲主義を実行すること、体を虐待して肉の放縦を抑制することも、 神のみこころではありませんでした。コロサイ人に対する神のみこころは、キリ ストを知り、キリストを経験し、キリストを享受し、キリストを生き、キリスト に彼らの命またパースンとなっていただくことでした。今日、わたしたちに対す る神のみこころも全く同じです。パウロは次のように言っていたかのようです、 「コロサイの人たち、あなたがたはグノーシス主義、神秘主義、禁欲主義、儀式、 規定によってそらされ、迷わされ、たぶらかされてきました。あなたがたは神の みこころを知る全き知識で満たされる必要があります。神のみこころとは、すべ てを含むキリストがあなたがたの分となることです」。 神のみこころはキリストで浸透されることであると知るなら、わたしたちは神の みこころについて正しい認識を持っています。わたしたちが行なうことは何であ れ、神のみこころの中で行なわれるべきです。わたしたちはキリストの中で結婚 し、キリストの中で働き、キリストの中で行動すべきです。キリストはわたした ちの命、またわたしたちのパースンであるべきです。これが神のみこころです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・コロサイ人への手紙(一)」(2004 年版)メッセージ第3編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。