福音はわたしたちにキリストの実際をもたらす ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ1:5 それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みから来る のであり、その望みについては、あなたがたは以前に、福音の真理の言の中で聞 いています。 ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、実際であり、命であ る。わたしを通してでなければ、だれも父に来ることはない。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 福音の真理は、福音の実際、真の事実であって、福音の教理ではありません。真 理ではない「言」は、福音の教理と考えられるかもしれません。わたしたちの福 音の宣べ伝えには、福音の言葉があるだけでなく、福音の真理、すなわちキリス トご自身がなければなりません。福音の実際であるキリストは、わたしたちの宣 べ伝えにおける実際でなければなりません。 しかしながら、多くの福音の宣べ伝えには言葉があるだけで、それはおそらく雄 弁で説得力のある言葉であっても、実際がありません。これはキリストが、聞く 人たちに実際として供給されないことを意味します。わたしたちの福音の宣べ伝 えは異なっていなければなりません。たとえわたしたちが雄弁でなくても、聞く 人は、キリストの実際が内側に注入されているのを感じることができなければな りません。そのような福音の宣べ伝えの下にいる人たちは、彼らの実際としての キリストの中に浸り込むでしょう。 コロサイ人は福音の真理の言葉、すなわち福音の実際を聞いたので、聖徒たちを 愛してキリストを生きることによって、彼ら自身のために天に望みを蓄えること ができました。キリストを命とすることによって、彼らは人間的には愛すること ができなかった人たちを愛することができました。彼らは福音の真理としての彼 の中に浸り込むことによって、命としてのキリストを享受することができました。 このようにして彼らは、キリストを彼らの望みとして経験することができました。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・コロサイ人への手紙(一)」(2004 年版)メッセージ第2編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。