その霊の二つの面――命と力(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ20:22 彼はこう言って、彼らの中に息を吹き込んで言われた、「聖霊を 受けよ」。 使徒1:5 なぜなら、ヨハネは水でバプテスマしたが、あなたがたは間もなく、 聖霊の中にバプテスマされるからである。 1コリント12:13 なぜなら、わたしたちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自 由人も、みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を 飲むようにされたからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 命の霊については、わたしたちは彼を息として吸い込む必要があります(ヨハネ 20:22)。力の霊については、エリヤの外とうによって予表されたように(列王下 2:9, 13-15)、わたしたちはその霊を上着として着る必要があります。前者は、 命の水としてわたしたちが飲むことを必要とします(ヨハネ7:37-39)。後者は、 バプテスマの水としてわたしたちが浸し込まれることを必要とします(使徒1:5)。 これらは、わたしたちの経験のための一つ霊の二つの面です(1コリント12:13)。 命の霊の内住は、本質的なものであって、わたしたちの命と生活のためです。力 の霊の注ぎは、エコノミー的なものであって、わたしたちの務めと働きのためで す。 わたしたちは、弟子たちが命の霊を本質上において受けることに加えて、「高い 所から力を着せられ」て、エコノミー上においてその霊によって力を受ける必要 があったことを、印象付けられる必要があります。ヨハネによる福音書第20章に おいて起こったことは、本質上においては命の事柄でした。しかし、使徒行伝第 2章において起こったことは、エコノミー上においては務めのための力の事柄で した。力を着せられるために、わたしたちは上着としてのその霊を着る必要があ ります。これはエリヤの外とうによって予表されています。こういうわけで、あ る聖書教師たちは力の霊を「マントの霊」、外とうとしての霊と呼びました。列 王紀下第2章でエリシャは、エリヤの外とうを受けることを期待していました。 エリシャがこの外とうを受けた時、それはエリヤの霊を受けたことの表示でした。 ルカによる福音書第24章49節において、主は同じ思想、すなわち外とうの霊につ いての思想を持っておられます。主は弟子たちに、高い所から力を着せられるま で待つようにと告げられました。 わたしたちはまた、命の霊と力の霊が、わたしたちの経験のための一つ霊の二つ の面であることを認識する必要があります。わたしたちはコリント人への第一の 手紙第12章13節において両方の面を見ます。一方において、わたしたちはみな一 つ霊の中で一つからだの中へとバプテスマされました。他方において、わたした ちはみな一つ霊を飲むようにされました。水の中に浸されることは外面的なこと です。しかし、水を飲むことは内面的なことです。なおまた、その霊を内側に飲 むことは、本質上のことです。外側でその霊の中にバプテスマされることは、エ コノミー上のことです。その霊の内なる面は、本質上において命のためです。ま た外側の面は、エコノミー上において務めと働きのためです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(四)」(1988年版)メッセ ージ55から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。