食卓の上の団体的なパン(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ22:19 それから、イエスはパンを取って感謝をささげ、それをさいて彼ら に与え、言われた、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。 わたしの記念にこれを行ないなさい」。 1コリント11:24 感謝をささげてから、それをさいて言われました、「これは、 あなたがたのために与えるわたしの体である。わたしの記念にこれを行ないなさ い」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 先回のメッセージでわたしたちは、ルカによる福音書第22章7節から20節におい て、過越と主の食卓との両方があることを指摘しました。過越において神の選び の民によって享受された主要なものは、小羊でした。小羊の肉は、彼らが食べる ためでした。しかし、主の食卓においては、わたしたちが新約の信徒たちとして 享受する主要な項目は、小羊ではありません。わたしたちの享受のための主要な 項目はパンです。これは極めて意義深いです。 主イエスがわたしたちの贖いのために神にささげられた時、彼はパンとしてでは なく、小羊としてささげられました。しかしながら、その結果は小羊ではなく、 パンです。小羊は一つの単独の実体です。しかし、パンは団体的なものです。一 粒の麦が一塊のパンを形成することは不可能です。一塊のパンは一つの団体的な 実体であり、多くの穀粒から成り、構成されたものです。過越の祭りには、性質 において団体的であるものを食するという観念はありません。しかし主の食卓で は、その象徴、特にパンの塊は、極めて意義深い特徴を帯びています。この特徴 は、一つの団体的実体、一つの団体的なからだという特徴です。わたしたちがこ れを認識することは非常に重要です。 主の食卓におけるパンの塊は、主の死の後に来るものを指し示しています。それ は彼の復活において主から出てくるものを表徴しています。パンの塊によって表 徴されるものは、主の死の前のものではなく、彼の死の後と主の復活におけるも のです。彼の死の前、主イエスは一人であり、一つの小羊でした。しかし、復活 において彼の死から出てくるものは、一つの団体的な実体です。この実体はパン の塊、すなわち一つの団体的なからだを表徴するパンです。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(四)」(1988年版)メッセ ージ50から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。