逃れるために、目を覚まして祈り求める ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ21:34 あなたがたの心が酩酊、泥酔、生活の思い煩いで押しつぶされてい るところへ、その日がわなのように、突然あなたがたに襲いかかることがないよ うに、気をつけなさい。(35節)なぜなら、それは、地の全面に住んでいるすべて の人に臨むからである。(36節)しかし、これらの起ころうとしているすべての事 から逃れ、人の子の前に立つことができるように、絶えず目を覚まして、祈り求 めていなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第21章36節の「逃れる」という言葉は、大患難(ルカ17:34-36)の前に取り去られ ること、携え上げられることを表徴します。それは人の住む全地に臨む容赦のな い大患難となるでしょう(マタイ24:21)。ですから、この携え上げられることは、 「地上に住む者たちを試すために人の住む全地に臨もうとしている試練の時から」 (啓3:10)守られることです。さらに、「すべての事」とは大患難の事柄です。人 の子の前に立つことは、啓示録第14章1節において人々が立っているのと一致し ます。それは、大患難の前に携え上げられた勝利者たちが、天のシオンの山で救 い主の前に立つことを示しています。 36節で人・救い主は、わたしたちに目を覚ましているように命じます。麻ひさせ られたり、麻酔にかけられたりするのではなく、わたしたちは油断なく見張って いる必要があります。さらに、どんな時にもわたしたちは祈り求める必要があり ます。これは一般的な方法で祈ることではありません。それは、起ころうとして いる事からわたしたちが優勢に逃れることができるように特別な方法で祈ること です。わたしたちがすでに指摘したように、このように優勢であることは、大患 難から逃れる力と能力を持つことです。わたしたちは今日のこの世の傾向に捕ら えられるべきではありません。そうではなく、わたしたちはこの傾向から逃れる 必要があります。逃れる力と能力は、目を覚まして祈り求めることから来ます。 わたしたちが大患難の前に携え上げられて、御座の上のキリストに会うために取 り去られるかどうかは、彼にかかっているのではありません。それはわたしたち が目を覚ましていることと、特別な方法でわたしたちが祈ることとにかかってい ます。わたしたちは絶えず目を覚まし、わたしたちが優勢に大患難を逃れること ができるよう祈り求めている必要があります。わたしたちは、地上で起ころうと している事から逃れる力と能力を持つために、祈る必要があります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(四)」(1988年版)メッセ ージ48から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。