女と銀貨 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ15:8 また、ある女が銀貨を十枚持っていて、その一枚の銀貨を失ったなら、 ともし火をともし、家を掃いて、それを見つけるまで念入りに捜さないだろうか?  (9節)そして見つけたなら、友人や隣人を呼び集めて、「わたしと一緒に喜ん でください。失った銀貨が見つかりました」と言う。(10節)わたしはあなたがた に言う。これと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前 で喜びがある。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― ともし火は、神の言葉を象徴しており(詩119:105, 130)、その霊によって用いら れて、罪人の位置と状態を照らし、暴露します。それは罪人が悔い改めるためで す。捜し求める女のたとえ話によって示されたように、その霊の働きは、わたし たちを内側で照らすことです。この捜し求める女のように、その霊は少しずつ、 細やかに、注意深く、わたしたちの内なる存在を照らします。その霊はわたした ちの思いを照らし、それからわたしたちの感情と意志を照らし、それからわたし たちの良心と心全体を照らされます。この方法によって、その霊はわたしたちを 「見つける」のです。 その霊がわたしたちを照らすことによってわたしたちを見いだした結果、わたし たちは目覚めて、本心に立ち返り、自分のいる所にとどまり続けることがいかに 愚かであるかを認識します。わたしたちが自分を目覚めさせるのではありません。 その反対にわたしたちは、捜し求めるその霊の照らしによって目覚めさせられる のです。その霊の捜し求めること、照らすこと、見いだすことは、荒野で起こる のではなく、十字架上で起こるのでもありません。それはわたしたちの心の中で 起こります。これは悔い改めという結果になります。それは、わたしたちの生活 の方向に一つの変化を生じさせる、わたしたちの思いの中の変化です。 その霊がわたしたちを見つけることが、わたしたちの存在という「家」の中で起 こるという事実は、わたしたちが自分自身の中に失われていたことを啓示します。 わたしたちは、思い、意志、感情の中に失われていました。わたしたちは、単に 荒野の中で失われていたのではありません。わたしたちは、自分自身の中に失わ れていたのです。キリストは、この世の荒野からわたしたちを連れ戻すために、 十字架上で死なれました。しかし、わたしたちは自分自身の中で失われたままで す。ですから、その霊はわたしたち自身の中でわたしたちを見つけるのです。わ たしたちはこのことを経験から証しすることができます。その霊がわたしたちの 思い、感情、意志、良心、心を照らされた時、わたしたちは悔い改め始めました。 その霊の照らしの結果として生じるこの悔い改めは、完全に内側の事柄です。ど んな人も、御使いも、そのような主観的な働きをわたしたちの中で行なうことは できません。これは、浸透するその霊によってのみ、なされ得ます。なぜなら、 その霊はわたしたちの存在の深みに浸透し、わたしたちを照らし、わたしたちを 暴露することができるからです。その時わたしたちは、自分がいかに愚かである かを知ります。わたしたちは悔い改め、御父に立ち返ることを決心します。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(三)」(1987年版)メッセ ージ34、35から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。