キリストを享受して褒賞を受ける(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ14:27 だれでも自分の十字架を担って、わたしについて来ない者は、わた しの弟子になることはできない。(28節)あなたがたのうちで、やぐらを建てよう とする者は、それを完成するのに十分な費用があるかどうか、まず座って計算し ないだろうか? (29節)そうでないと、土台を据えたのに、仕上げることができ ないなら、見ている人たちはみなあざけり始め……。 啓示録20:6 第一の復活にあずかる者は、幸いであり、聖である。これらの人た ちに対して、第二の死は何の権威もない。彼らは神とキリストの祭司であり、千 年の間、彼と共に支配する。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) ここ(ルカ14:25-35)の口調は、第14章15節から24節の口調と非常に異なっていま す。救いのためには、わたしたちは何もする必要がありません。これは、救いの ためには何の条件もないことを意味します。わたしたちはただ神の招きに応じ、 神がわたしたちに与えてくださるものを受け入れる必要があるだけです。そうす れば、わたしたちは救われます。しかし、神のエコノミーには、単に救われる以 上のことがあります。救われた後、わたしたちは来たるべき王国に入って、褒賞 を受ける必要があります。ですから、恵みによって救われるのは一つのことであ り、わたしたちが主に従っていくことによって褒賞を受けるのは別のことです。 わたしたちはみな、救いと褒賞との違いを見る必要があります。神の救いは、今 日わたしたちがヨベルを享受することです。神の褒賞は、わたしたちが来たるべ き時代においてヨベルを享受することです。わたしたちは、新約のヨベルが三段 階から成っていることを見ました。第一段階は、現在の時代、恵みの時代におけ るヨベル、第二段階は、来たるべき時代、王国の時代におけるヨベル、第三段階 は、永遠における、新天新地におけるヨベルです。今日、ヨベルを享受すること は、救いの問題です。しかしながら、来たるべき時代にヨベルを享受することは、 褒賞の問題です。永遠において、新天新地においてヨベルを享受することは、神 の全き救いの完全な味わいとなるでしょう。 今日だれでも神の招きを受け入れ、神がわたしたちのために用意してくださった ものを受け取る者は、新約のヨベルにあずかって、この時代にキリストを享受す る立場を持ちます。しかし、来たるべき時代でのヨベルの褒賞を受けるためには、 わたしたちはこの時代において忠信にキリストを享受する必要があります。多く の救われた人たちは、今日キリストを享受することに忠信でありません。こうい うわけで神は、わたしたちがこの現在の時代にキリストを忠信に享受するように と、一つの動機として褒賞を設けられたのです。もしわたしたちが今日キリスト を忠信に享受しないとしたら、わたしたちは来たるべき時代においてキリストの 享受を失うでしょう。ここにわたしたちは、神がその知恵において、来たるべき 時代におけるキリストの享受を、忠信な者たち、この時代においてキリストを忠 信に享受する者たちに対する褒賞とされたことを見るのです。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(三)」(1987年版)メッセ ージ32から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。