死を通して解放されるその霊の火(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ12:49 わたしが来たのは、地上に火を投じるためである。それがすでに燃 え上がっていたならと、わたしはどんなに願っていることか! (50節)しかし、 わたしには受けなければならないバプテスマがある。それが成し遂げられるまで、 わたしはどれほど圧迫されることであろう! ヨハネ12:24 まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う。一粒の麦が地 に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、それが死んだなら、 多くの実を結ぶ。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) ルカによる福音書第12章49節と50節は、ヨハネによる福音書第12章24節と対応し ています。ここのヨハネによる福音書第12章24節で、主はご自身を一粒の麦にた とえておられます。もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のまま であって、同じままです。しかし、それが地に落ちて死ぬとき、その穀粒の死は、 その内側の命を解放します。死は、一粒の麦の内なる命にとって一つの解放にな ると言ってもよいでしょう。そのような解放を通して、麦粒の命の豊かさが出て きて、多くの穀粒を生み出します。主イエスは一粒の麦として地に落ち、死を通 してご自身の魂の命を失いました。それは、彼が復活の中でご自身の永遠の命を 多くの穀粒へと解き放つためでした。 わたしたちがヨハネによる福音書第12章24節をルカによる福音書第12章49節、50 節と比較するとき、聖書のどちらの個所も、神聖な命の解放、あるいは主のパー スンの神聖な存在の解放を描写しているのを見ます。神として、主イエスは無限 の永遠の命を持っておられました。しかしながら、この無限の命は、彼の人性、 彼の肉体の中で大いに制限され、拘束されていました。こういうわけで、主はご 自身の神聖な命の解放を切望し、願われました。いったん彼の内側から神聖な命 が解放されると、彼は多くの信徒たちの中にそれを分け与えることができました。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(三)」(1987年版)メッセ ージ30から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。