軽べつされている者にあわれみを示す ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカによる福音書第5章27節から39節を読んでください。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第5章27節から39節には、レビまたはマタイと呼ばれる、軽べつされた取税人の 召しについての事例があります。27節は言います、「さてこれらの事の後、イエ スは出て行かれた。そして、レビという名の取税人が収税所に座っているのに目 をとめて、『わたしについて来なさい』と言われた」。収税所とは、税金徴収所 でした。そこにおいてマタイは、ローマ人のために税金を集めていました。マタ イは取税人の一人(マタイ10:3)であり、おそらく高い地位にあった人でしょう。 彼はユダヤ人たちによって罪定めされ、卑しめられ、忌み嫌われていた人でした (ルカ18:11)。ところが、彼は人・救い主によって召されました。後には、十二 使徒の一人として選ばれ、立てられました。何というあわれみでしょう! ユダヤ人が取税人たちを軽べつしていたのは、彼らがローマ帝国主義者たちのた めに税金を集めていたからでした。彼らは反逆者と見なされました。ユダヤ人は 彼らを嫌悪し、極みまで彼らを軽べつしました。それにもかかわらず、主イエス はこれらの取税人の一人に来られ、彼を召されたのでした。マタイに対する主の 召しにおいて、わたしたちは主の人性の美徳の高い標準を見ます。主はマタイを 召そうとされた時、次のように思われたことでしょう、「確かに、この人は取税 人です。しかし、彼もやはり人です。ですから、わたしは彼を退けたり、彼を放 棄したりしません。むしろ、わたしは彼の所に行き、彼に触れ、彼を召しましょ う。わたしは占有されていた人たちだけでなく、軽べつされていた人たちをも召 します」。 主イエスは義であられるだけでなく、あわれみ深くもあります。ヤコブの手紙第 2章13節によれば、「あわれみは裁きに打ち勝つ」のです。わたしたちは、軽べ つされてあわれな状態にある人たちにあわれみを実行する必要があります。主は マタイに対してあわれみ深くありました。主のあわれみは、マタイの心を深く動 かしたに違いありません。そうでなければ、彼は主のために宴会を開いたりしな かったでしょう。マタイは幸福で喜びに満ちていたに違いありません。多くの取 税人や罪人たちの大群衆を招いて、主イエスと一緒に食事をしたのは、彼にとっ てすばらしい機会でした。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカの福音書(一)」(1987年版)メッセ ージ13から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。