イエスのバプテスマ(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ローマ8:3 ……神は、ご自身の御子を罪の肉の様で、罪のために遣わし、肉に おいて罪を罪定めされました。 ヨハネ3:14 そして、モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなけ ればならない。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 主イエスは完全な人、すなわち人性の美徳すべてを持つ人でした。それにもかか わらず、彼は罪の肉の様の中にありました。もちろん、主イエスは堕落した人類 の性質を持っていませんでした。しかしながら、彼は堕落した人類の様、すなわ ち、その外側の形あるいは外観を持っていました。ローマ人への手紙第8章3節で パウロは、キリストは罪の肉の様で来られたと言っています。彼は罪の性質を持 っていませんでしたが、罪の肉の様、外観、形を持っていました。この罪の肉の 様は裁かれ、終わらせられ、葬られる必要がありました。これが、人・救い主の バプテスマのもう一つの理由でした。 わたしたちは、堕落した人が必ず裁かれ、終わらせられ、葬られる必要があるこ とを見ました。わたしたちはまた、人性の美徳が神聖な属性を表現するような生 活を送るためには、神によって造られた人でさえ退けられなければならないこと を見てきました。このためには、善良で、全体的で、完全な、神によって造られ た人でさえ、退けられなければなりません。こういうわけで、神・人である主イ エスはヨハネによる福音書の中で、自分だけでは何も行なわないと言われたので す。ヨハネによる福音書第5章19節で主は次のように言われました、「子は父が 行なわれることを見ないでは、自分から何もすることはできない」。ヨハネによ る福音書第5章30節で主は再び次のように言われました、「わたしは自分自身か らは何も行なうことができない」。ヨハネによる福音書第8章28節で主は次のよ うに宣言されました、「わたしは自分からは何も行なわない」。 主は人の生活の中で神を表現するために、その務めの開始にあたり、バプテスマ を通してご自身をわきに置かれました。彼は完全で、全体的な人でした。しかし、 彼は自分自身では生きようとされませんでした。そうではなく彼は、彼の中にお られた父なる神によって生きられました。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ルカによる福音書(一)」(1987年版)メ ッセージ8から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。