すべてに十分な神 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 創17:1 ……エホバはアブラムに現れて、言われた、「わたしはすべてに十分な 神である。あなたはわたしの前に歩み、完全でありなさい」。(原文) ピリピ1:19 というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの 霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知 っているからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第17章1節の神の称号である、すべてに十分な神の意義を学ぶ必要があります。 ヘブル語で、この称号はエル・シャダイです。エルは強い方、力ある方を意味し、 シャダイは胸、乳房(アッダー)の意味を暗示し、すべてに十分であることを意味 します。エル・シャダイは、乳房のある力ある方、すべてに十分な供給を持つ力 ある方です。乳房は乳を生み出し、乳はすべてに十分な供給であって、水分、ミ ネラル、多くのビタミンがあり、わたしたちの日常生活に必要なすべてを含みま す。ですから、エル・シャダイはすべてに十分な力ある方を意味します。 神はまたアブラハムに、完全であるようにと告げられました。完全であるとは何 を意味するのでしょうか? アブラハムが不完全であるとは、彼が良くなかった ことを意味するのではありませんでした。それは、彼が神に欠けていたことを意 味しました。わたしたちのだれも、神なしに完全ではありません。神がなければ、 わたしたちは常に何かに欠けています。 実際的に言って、完全であるとは、わたしたちが肉(すなわち、自己)の力に頼ら ないで、自分の生活と働きのために、すべてに十分な力ある方に信頼することを 意味します。わたしたちは常にあらゆる事で、神がすべてに十分であることに信 頼しなければなりません。例えば、わたしたちの多くは、自分の短気に悩まされ ます。なぜわたしたちはある時、短気を起こすのでしょうか? なぜなら、その ような時、わたしたちが神に信頼していないからです。短気を起こすことは、わ たしたちに強いて一つの学課を学ばせるでしょう。それは、決して神から離れる ことなく、瞬間ごとに神に信頼することです。自分の短気に打ち勝とうと努めて はなりません。あなたが自分の短気を忘れ、瞬間ごと神に信頼するなら、あなた の短気は征服されるでしょう。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「旧約ライフスタディ・創世記(三)」(1998年版)メッセー ジ第47編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。