キリストの本質的な面とエコノミー的な面(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 使徒20:28 ……神がご自身の血を通して獲得された神の教会を牧させるのです。 マタイ1:20 ……マリヤをあなたの妻にすることを恐れてはなりません。彼女の 中に生まれたのは、聖霊からです。(23節)「見よ、処女が身ごもって男の子を産 む。人々は彼の名をインマヌエルと呼ぶ」(インマヌエルは、神われらと共にい ますと訳される)。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) わたしたちが、主イエスは十字架上で神・人として死なれたことを指摘すると、 ある人たちはマルコによる福音書第15章34節についてはどうなるかと思うことで しょう、「そして午後三時に、イエスは大声で叫ばれた、『エロイ、エロイ、レ マ、サバクタニ?』。訳せば、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになっ たのですか?』」。これは、主がわたしたちの罪を担い(1ペテロ2:24)、わたし たちに代わって罪とされ(2コリント5:21)、罪人の立場を取られた(1ペテロ 3:18)時の主の叫びでした。これは、神がわたしたちの罪のために身代わりとし て主を裁かれたことを意味します。神の目には、キリストはひとりの大罪人とな られたのです。キリストはわたしたちの身代わりであり、神の目に罪とされたの で、神は彼を裁かれ、彼を見捨てさえされました。 主イエスは聖霊から身ごもられ、神から、また神をもって生まれたので、聖霊を 彼の神聖な存在の内在的な本質として持っておられました。ですから、神が彼を 本質的に去ること、すなわち、彼を見捨てることは、不可能でした。それにもか かわらず、彼の務めを遂行するためにエコノミー上の力として彼の上に下ったそ の霊が、彼を去られた時、彼はエコノミー上において神によって見捨てられまし た。しかし、神の本質は彼の存在の中にとどまりました。こういうわけで、彼は 神・人として十字架上で死なれました。そして、わたしたちの贖いのために彼が そこで流された血は、人なるイエスの血であるだけでなく、神・人の血でもあり ました。ですから、この血は神ご自身の血であり、それを通して神は教会を獲得 されたのです。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・使徒たちの行動(三)」(1980年版)メッ セージ54から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。