イエス・キリストは聖なる方である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)――――――――――――― 使徒3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの父祖の神は、彼のし もべイエスに栄光を与えられました。あなたがたはその方を引き渡して、ピラト が釈放することを決めていたのに、彼の面前で拒否しました。(14節)あなたがた は聖で義なる方を拒否して、人殺しの男を自分たちに与えるように求めたのです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― この第3章14節の「聖である」とは、ナザレ人イエス、すなわちユダヤ人の指導 者たちによって軽べつされた方が絶対的に神のためであり、神へと聖別されてい たことを示します。なおまた、彼は絶対的に神と一でした。聖書の中の「聖い」 という言葉の意味によれば、それは神に対して絶対的であり、絶対的に神のため であり、絶対的に神と一である方を示します。すべての人類歴史の中で、主イエ スだけがそのような方です。全生涯を通して主イエスは、絶対的に神へと聖別さ れ、神のためであり、神と一でした。彼が神のために絶対的でなく、神と一つで はなかったという事例は、一つもありませんでした。こういうわけで、彼は聖な る方と呼ばれるのです。彼だけが「聖なる方」という称号に値します。 義であるとは、神に対して義であり、あらゆる人に対して義であり、またあらゆ るものに対して義であるということです。主イエスだけが義なる方と呼ばれ得ま す。なぜなら、彼だけが神に対して、あらゆる人に対して、またあらゆるものに 対して義であるからです。わたしたち自身においては、わたしたちは神に対して 義でなく、他の人たちに対しても義でなく、物に対しても義ではありません。例 えば、怒るとわたしたちはドアをけったり、いすをたたいたりするかもしれませ ん。これはドアやいすに対する不正です。ですから、わたしたちは義なる者では あり得ません。義なる方として、主イエスは義しい方です。彼は神に対しても、 人に対しても、何ものに対しても決して不正ではありませんでした。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・使徒たちの行動(一)」(1988年版)メッ セージ13から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。