本質上の霊とエコノミー上の霊(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ20:22 彼はこう言って、彼らの中に息を吹き込んで言われた、「聖霊を 受けよ」。 使徒2:1 さて、ペンテコステの日が満ちた時……(2節)すると突然、激しい風が 吹いてきたように、天から音が聞こえ、彼らが座っていた家中を満たした。(4節) すると、彼らはみな聖霊で満たされ、その霊が彼らに語り出させるままに、さま ざまな言語で語り始めた。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第1編) 主の復活において、復活の命のその霊は、弟子たちの本質上の霊的存在と生活の ために、弟子たちの中へと吹き込まれた息にたとえられます(ヨハネ20:22)。主 の昇天において、弟子たちの上に注がれた昇天の力のその霊は、弟子たちのエコ ノミー上の務めと動きのための風によってここでは象徴されています。復活の命 の本質上の霊は、信者たちがキリストを生きるためです。昇天の力のエコノミー 上の霊は、彼らが主の委託を遂行するためです。 わたしたちは、ヨハネによる福音書第20章の息を吹き込むことと、使徒行伝第2章 の風が吹くこととの違いを、はっきりと見る必要があります。ヨハネによる福音 書第20章の息を吹き込むことは、弟子たちの中に命を与える霊を本質的に分与す るためであり、彼らの霊的存在のため、また彼らの霊的生活のためです。しかし、 使徒行伝第2章の風が吹くことは、すでに本質的な霊を内側に受けていた信者た ちの上に、エコノミー上の力の霊を注ぎ出すためです。力の霊の注ぎ出しは、信 者たちの霊的存在や生活のためではありません。そうではなく、力の霊の注ぎ出 しは、信者たちの務めと動きのためです。ですから、その霊の本質的な面は生活 のためであり、エコノミー的な面は務めのためです。息を吹き込むことは命のた めであり、風が吹くことは力のためです。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・使徒たちの行動(一)」(1988年版)メッ セージ7から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。