キリストの見えない臨在を享受する(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ20:22 彼はこう言って、彼らの中に息を吹き込んで言われた、「聖霊を 受けよ」。 使徒1:3 イエスは苦難の後、多くの確かな証拠によって、ご自分が生きておら れることを彼らに示し、四十日にわたって現れ、神の王国についての事柄を語ら れた。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 復活の日に弟子たちの中にその霊としてのご自身を息吹き込んだその時から、復 活したキリストは彼らの中に住まわれました。使徒行伝第1章3節で語られている 彼の現れは、彼が弟子たちを離れたことを意味するものではありません。それが 意味することは、主がご自身の臨在を弟子たちに見えるものとし、彼らを訓練し て、主の見えない臨在を絶えず認識させ、享受させたということにほかなりませ ん。弟子たちはキリストの見える臨在に慣れてしまっていました。三年半の間、 彼は肉体において見えるかたちで彼らと共におられました。彼らは彼を見、彼に 触れ、彼と共に食事をしました。彼らのうちの一人は、彼の胸に寄りかかりさえ しました(ヨハネ13:23)。突然、彼の見える臨在は取り去られました。それから、 主は弟子たちの所に戻って来られて、ご自身を彼らの中に息吹き込まれました。 その時以来、弟子たちと共にある主の臨在は、目に見えないものとなりました。 それはもはや物質的な臨在ではなく、霊的な臨在でした。 主の霊的な臨在は目に見えませんが、それは主の見える臨在よりもさらに実際的 で、活力のあるものです。主の見える臨在は、空間と時間の要素とかかわりがあ ります。しかし、主の見えない臨在には、空間の要素も時間の要素もありません。 主の見えない臨在は、至る所にあります。わたしたちがどこにいても、主の見え ない臨在はわたしたちと共にあります。実は、主の見えない臨在は、単にわたし たちと共にあるだけではなく、わたしたちの内側にあるのです。主が肉体におい て弟子たちと共におられた時、彼らと共にある主の臨在は、外側のものであり、 目に見えるものでした。しかし、主が命を与える霊としてご自身を彼らの中に息 吹き込まれた後、主の臨在は内側のものとなり、目に見えないものとなりました。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・使徒たちの行動(一)」(1988年版)メッ セージ3から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。