キリストの見えない臨在を享受する(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、彼はあなたがたに別の 慰め主を与えて、いつまでも、あなたがたと共にいるようにしてくださる。 (17節)それは実際の霊である。……彼はあなたがたと共に住んでおり、あなたが たの中におられるようになるからである。(18節)わたしは、あなたがたをみなし ごのままにはしておかない。わたしはあなたがたに来る。 16:7 しかし、わたしはあなたがたに真理を語る。わたしが去って行くことは、 あなたがたには益である。なぜなら、わたしが去っていかなければ、慰め主はあ なたがたに来ないからである……。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 肉体の中にある限り、キリストは弟子たちの中に入ることはできませんでした。 こういうわけで、キリストはヨハネによる福音書において、彼が死んで復活され ることが彼らにとって益であることを、彼らに示されました。復活において、彼 は命として弟子たちの中に入り、彼らのパースン(人位)として彼らの中にとどま り、それによってご自身を増殖することができるようになりました。主イエスは 復活の後、命を与える霊として弟子たちの所に戻ってこられ、ご自身を彼らの中 に息吹き込まれました(ヨハネ20:22)。主が弟子たちの中にご自身を息吹き込む ことは、彼らの中に命としてのご自身を増殖することでした。 主はご自身を弟子たちの中に息吹き込まれた後、四十日にわたってエコノミー的 に彼らと共におられました。主が生けるご自身を提示することは、弟子たちを訓 練して、目に見えない主の臨在を実行し、享受するようにさせるためでした。主 の死の前、主の臨在は肉体において目に見ることができました。主の復活の後、 主の臨在はその霊の中にあり、目に見えませんでした。復活の後の主の現れや出 現は、弟子たちを訓練して、目に見えない主の臨在を認識し、享受し、実行する ようにさせるためでした。そして目に見えない主の臨在は、目に見える主の臨在 よりもさらに便利であり、まさったものであり、尊いものであり、豊かなもので あり、実際的なものです。目に見えない主の臨在は、復活の中のその霊にほかな りません。主はその霊を弟子たちの中に息吹き込みました。そして、その霊は常 に彼らと共におられるのです。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・使徒たちの行動(一)」(1988年版)メッ セージ3から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。