聖別されることにおけるわたしたちの責任 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1テサロニケ5:23 そして平和の神ご自身が、あなたがたを徹底的に聖別し、あ なたがたの霊と魂と体とを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来 臨の時に、責められるところのない者にしてくださいますように。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第5章23節によれば、わたしたちは徹底的に聖別されることに対して責任を担っ ています。一方において、神はわたしたちを徹底的に聖別されます。他方におい て、わたしたちの霊、魂、体は守られる必要があります。神がわたしたちを守ら れるとは言え、わたしたちは守られるための責任をある程度、担う必要がありま す。 わたしたちは、「守られる」(be preserved)という言葉を、能動受動態と見なし てよいでしょう。これが意味することは、わたしたちは守られているとは言え、 責任を担い、主導権を取って、守られるようにしなければならないということで す。ですから、「be」は何か能動的なものを暗示します。「preserved」は何か 受動的なものを暗示します。 神はわたしたちを守ることを意図されます。しかし、わたしたちは進んで守られ ようとしているでしょうか? 守られるための責任をわたしたちが担う必要があ ることの一例として、子供たちに薬を与えることを用いてもよいでしょう。ある 時、子供は薬を飲む必要があります。しかし、子供は進んでそれを飲もうとはし ないでしょう。実際、両親が与えようとしても拒むので、両親は子供を無理に押 さえつける必要があるかもしれません。子供の健康を守るために両親はこうしま す。しばしばわたしたちは主に協力せず、守られようとしません。このため、神 はやむを得ず、ある事を行なって、わたしたちを征服し、わたしたちを制限する のです。それによってわたしたちは、聖別され守られるために必要なものを取り 入れるのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・テサロニケ人への第一の手紙(二)」 (1986年版)メッセージ22から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。