父なる神と主イエス・キリストにある教会 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1テサロニケ1:1 パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリ ストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたにありますように。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 最近わたしはテサロニケ人への第一の手紙第1章1節を学んでいた時、「父なる 神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会」について語ることは、何か 非常に重みのある、深いことであることを知りました。わたしはこの節について、 ディーン・アルフォードの書物を調べました。そして、彼が言っていたことで助 けられました。まずアルフォードは、ここの「にある」という言葉は、交わりと あずかることを示していると指摘しています。アルフォードが言っている「あず かること」は、「有機的結合」という表現と同じです。交わりは、共同の結合を 意味します。教会は、神と共同の結合を持っており、また彼にあずかっている一 群れの人々です。 さらにまたアルフォードは続けて、「父なる神……にある」という表現は、教会 の中の人たちがもはや異教徒でも異邦人でもないというしるし、表示であると言 います。異邦人は神を持っていません。しかし教会は、父なる神の中にある一群 れの人々から構成されています。 アルフォードはまた、「主イエス・キリストにある」とは、教会の人たちがもは やユダヤ人ではないことを示すと言っています。ちょうど異教徒がまことの神を 信じないように、ユダヤ人はイエス・キリストを信じません。神と主イエス・キ リストを信じる人たちはだれでしょうか? 教会の人々はそのような信者たちで す。今日、わたしたちは異教徒でもユダヤ人でもありません。わたしたちは、父 なる神と主イエス・キリストにある教会の人々です。教会生活の中にいる人たち で、ユダヤ教の背景を持つ人たちは、自分がもはやユダヤ人ではないことを認識 しなければなりません。教会は、もはや異邦人でもユダヤ人でもない人たちから 構成されています。なぜなら、今やわたしたちはみな、父なる神と主イエス・キ リストにあるからです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・テサロニケ人への第一の手紙(一)」 (1986年版)メッセージ5から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。