わたしたちは罪を犯した時どうすべきか? ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1ヨハネ1:7……御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを清めます。 (9節)もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、神は信実で義であられるの で、わたしたちの罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださいます。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― もしわたしたちが不幸にも失敗してしまったなら、わたしたちはどうすべきでし ょうか? わたしたちは直ちに神の御前にやって来て、わたしたちの罪を彼の血 の下に置くべきです。その次の瞬間、わたしたちは主を仰ぎ望み、次のように言 うことができます、「神よ、わたしはあなたに感謝し、賛美します。なぜなら、 あなたの御子は依然としてわたしの命であり、またわたしの聖であるからです。 あなたの御子はわたしの中から、彼の勝利を得る命を生かし出してくださいます」。 わたしたちは一秒以内に回復されることができます。五分間、あるいは一時間と 待つ必要はありません。神はわたしたちを赦し、清めてくださいます。しかし、 わたしたちは、自分はもっと長い間、自分自身のことを嘆くべきであり、またもっ と多くの罰を受けるべきであり、そうしてはじめて徹底的に清められると思うの です。これは、問題を求めていることにほかなりません……。 ある人は尋ねるかもしれません、「もし人が、勝利を得る経験の中へと入った後 にも、依然として失敗し、血の清めを必要とするのであれば、彼は、勝利を得る 経験を持ったことのない人と同じではないでしょうか?」。両者の間には大きな 違いがあります! 以前は、ほとんどが失敗であり、勝利は偶然のことでした。 今は、ほとんどが勝利であり、偶然に失敗します。勝利を得る前は、失敗は繰り 返して起こります。短気を起こす者は、いつも短気を起こします。思いが汚れて いる者は、いつも汚れた思いを持っています。失敗する時は、いつも同じように 失敗し、勝利はまれです。習慣的に自分の短気、高ぶり、しっと、偽りによって 縛られています。勝利を得る経験を経過した後、彼は偶然に失敗するだけであり、 失敗したとしても、同じ罪を何度も何度も犯すことはありません。彼が罪を犯し ても、それは以前と異なっています。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第24巻「勝利を得る命」(1997年版)メッセージ第9編か ら引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。