新しい人の中ではキリストがすべてであり、すべての中におられる(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ3:10 新しい人を着たのです。……(11節)その新しい人には、ギリシャ 人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はあり得ませ ん。キリストがすべてであり、すべての中におられるのです。 1コリント12:12 それは、体が一つであっても多くの肢体があり、体のすべて の肢体が多くあっても一つの体であるように、キリストも同様だからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 「その新しい人」という言葉(上記の11節)は、10節の新しい人のことを言って います。新しい人の中には天然の人はありません。さらにまた、天然の人には何 の可能性も余地もありません。哲学的知恵を求めるギリシャ人も、奇跡的しるし を求めるユダヤ人もありません(1コリント1:22)。割礼と無割礼もありません。 割礼はユダヤの宗教儀式を守る人たちのことを言い、無割礼はユダヤ宗教に関心 を持たない人たちのことを言います。さらに新しい人の中には、未開人、スクテ ヤ人、奴隷、自由人もあり得ません。未開人は教養のない人であり、スクテヤ人 は最も未開な人々と考えられており、奴隷とは売られて奴隷の身分になっている 人たちであり、自由人とは奴隷の身分から解放された人たちでした。わたしたち はどのような種類の人であろうと、新しい人に関する限り、自分自身を何者でも ないと考えなければなりません。新しい人の中では、ただキリストだけに余地が あるのであって、どのような種類の天然の人にも余地はありません。こういうわ けで、教会の中でわたしたちはみな何者でもないのです。 新しい人の中では、キリストがすべてであり、すべての中におられます。新しい 人の中では、ただキリストだけに余地があります。彼は新しい人のすべての肢体 であり、すべての肢体の中におられます。彼は新しい人の中のあらゆるものです。 実は、彼が新しい人であり、彼が彼のからだなのです(1コリント12:13)。新し い人の中では、キリストが中心性また普遍性です。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・コロサイ人への手紙(三)」(1980年版) メッセージ28から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されていま す。