わたしたちが適用することのできるすべてを含む霊と成る(3) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ2:23 そのようなものは、ひとりよがりの礼拝と、謙そんと、体の苦行 とによって、いかにも知恵があるかのような好評を得ますが、肉の放縦を抑える には何の価値もありません。 ローマ8:13 なぜなら、もし肉にしたがって生きるなら、あなたがたは死ななけ ればならないからです。しかし、その霊によって体の行ないを死に渡すなら、あ なたがたは生きます。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第3編) 日々のクリスチャンの経験において、わたしたちは禁欲主義を実行することと十 字架の道を取ることとの違いを知る必要があります。十字架を取るということは、 わたしたち自身を何らかの方法で苦しめることでは絶対にありません。クリスチ ャンとして若いころのわたしは、「キリストに倣いて」という本を高く評価しま した。最終的にわたしは、その本の主張している事の多くが実際は禁欲主義であ ることを知りました。 もしキリストの十字架を適用しようとするなら、わたしたちは自分自身をその霊 に開き、その霊と接触し、わたしたちの内でその霊に自由な道を得ていただく必 要があります。わたしたちが自分の状況に十字架を適用することを語るとき、正 しい理解を持つ必要があります。わたしたちはキリストの死の効力がすべてを含 む霊の中にあることを認識する必要があります。キリストの十字架の実際はその 霊の中にあります。ですから、もしわたしたちがその霊に開き、わたしたちの内 でその霊に自由に動いていただくなら、彼はわたしたちの内側から流れるでしょ う。この内側の流れはわたしたちにキリストの死の効力をもたらします。さらに、 このキリストの死の適用は、復活におけるキリストご自身をもたらします。その 時、キリストと共に死んだ者たちとして、わたしたちは復活の中で彼と共に生き るでしょう。こうして、キリストは実際的な方法でわたしたちの命となられます。 わたしたちは十字架上でキリストと共に死にました。そしてキリストと共に復活 させられました。今や復活の中で、わたしたちはわたしたちの命としてのキリス トを持っています。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・コロサイ人への手紙(3)」(1980年版) メッセージ27から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されていま す。