禁欲主義対キリストの十字架(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ2:21 手に取るな、味わうな、触れるな、(22節)そのようなものはすべ て、使えば朽ち果てるものであり、人の戒めと教えによるものです。(23節)その ようなものは、ひとりよがりの礼拝と、謙そんと、体の苦行とによって、いかに も知恵があるかのような好評を得ますが、肉の放縦を抑えるには何の価値もあり ません。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第1編) このメッセージでは、わたしたちは続けて、キリストの死の経験が禁欲主義に相 対することを見ていきます。クリスチャン生活において、禁欲主義の余地はあり ませんし、肉の放縦を抑えようと試みて体を虐待する余地もありません。禁欲主 義は神の道ではありません。反対に、それは人の考案であり、人の堕落した思い の産物です。ヒンズー教徒や仏教徒は禁欲主義を実行しているかもしれませんが、 クリスチャンはそうすべきではありません。 禁欲主義は、第2章20節で語られている「この世の初歩的教え」の一部です。こ れらの初歩的教えは、外側の物質的事柄の初歩的な原則であり、形式主義の子供 っぽい教えです。これらの初歩的教えは、ユダヤ人と異邦人の初歩的な教えを意 味します。それは、禁欲主義から、また肉、飲み物、洗い事における数々の儀式 的な規定から成っている教えです。それは、禁欲主義の初歩的な原則であり、肉 を抑制しようと努力して体を虐待したり、自分自身を苦しめたりします。神の道、 十字架の道は完全に異なっています。 神の救いのエコノミーによると、十字架は宇宙における神の中心的な道です。わ たしは、神の道が禁欲主義ではないという事実を強調したいのです。クリスチャ ンはだれも禁欲主義を実行すべきではありません。キリストにある信者として、 わたしたちは喜びのない人たちではありません。その反対に、わたしたちは喜ん でいる人たち、絶えず主の中で喜んでいる人たちです。それでは、なぜわたした ちは自分の体に苦痛を課し、自分自身を虐待すべきでしょうか? 何と愚かなこ とでしょう! わたしたちの道、唯一の道は、十字架です。ですから、十字架の 経験は禁欲主義に相対するのです。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・コロサイ人への手紙(3)」(1980年版) メッセージ26から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されていま す。