ただ啓示によってのみクリスチャンとなる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ16:13 さて、イエスはピリポ・カイザリヤの地方に来た時、弟子たちに 尋ねて言われた、「人々は、人の子をだれであると言っているか?」。(14節)彼 らは言った、「ある人は、バプテスマのヨハネだと言い、ほかの人は、エリヤだ と言い、ほかの人は、エレミヤ、あるいは預言者の一人だと言っています」。 (15節)イエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたは、わたしをだれであ ると言うのか?」。(16節)シモン・ペテロが答えて言った、「あなたはキリスト、 生ける神の子です」。(17節)すると、イエスは答えて言われた、「バルヨナ・シ モン、あなたは幸いである。あなたにこのことを啓示したのは血肉ではなく、天 におられるわたしの父である」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 上記の節はわたしたちにはっきり示していますが、クリスチャンは神から啓示を 受けた人でなければなりません。クリスチャンになりたいなら、あなたにはこの 啓示、この認識がなければなりません。もしあなたが、「わたしはとてもイエス の人となりに感心する」と言ったとしても、それであなたがクリスチャンになれ るわけではありません。あるいはあなたが、「イエスの教えにはとても深い哲学 がある」と言ったとしても、それがあなたをクリスチャンにするのでもありませ ん。あなたはこの言葉に同意しないかもしれません。あなたは、「わたしはイエ スに感服しており、イエスを崇拝しています。そしてキリスト教にとても好感を 持っているのに、どうしてクリスチャンになれないのですか?」と言い争うでしょ う。いいえ、それでクリスチャンになれるわけではないのです。クリスチャンで あるとは、感服するかしないかの問題でもなければ、キリスト教に好感を持って いるかいないかの問題でもありません。ある人は主イエスを、バプテスマのヨハ ネ、エリヤ、エレミヤであると考えました。バプテスマのヨハネは良くないでしょ うか? エリヤは良くないでしょうか? エレミヤは良くないでしょうか? し かし、これらはみな人の見方であり、人の意見です。キリスト教は絶対に人から 出たものではありません。ですから、人の見方や人の意見は、キリスト教に置き 換わることはできません。キリスト教は啓示の宗教です。神から啓示を受け、主 イエスをキリスト、生ける神の子として知っている人たちだけが、主によって祝 福されます。 人はいったん啓示を受けると、聖霊の中で主イエスに触れ、主イエスに出会いま す。彼は主イエスと直接の関係を持ち、主と接触します。少し例証を与えましょ う。ある時、ある兄弟の家の電線が切れてしまいました。電線からは容易に感電 してしまいます。その兄弟はうっかりその電線に触れたものですから、すぐさま 手を引っ込めて、「しびれる! しびれる!」と叫びました。彼の小さな息子は、 父親がどのようにして手を伸ばし、引っ込めたかを見て、父親のまねをし、自分 もあたかも感電したふりをしました。彼は自分の小さな手を伸ばしたり引っ込め たりして、「しびれる! しびれる!」と叫んでいました。しかしわたしたちは、 その息子が外側の方法で振る舞っていたことがわかります。彼はまねていたので す。父親は本当に電気に触れ、それを実際に味わいました。兄弟姉妹よ、外側の 模倣は重要ではありません。重要なのは、実際の味わいです。あの兄弟が電気に 触れたように、あなたもキリストに触れなければなりません。あなたは、今日ナ ザレ人イエスが神の子であることを知っているでしょうか? 重要なのは、人が どう言うかではなく、あなた自身の内側がどう言っているかです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)の第34編 から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。