主の晩餐の意義(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1コリント11:24 感謝をささげてから、それをさいて言われました、「これは、 あなたがたのために与えるわたしの体である。わたしの記念にこれを行ないなさ い」。(25節)……杯も同じようにして、言われました、「……わたしの記念にこ れを行ないなさい」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) あなたが主を記念する時、この世の罪の力があなたの身に影響を及ぼし続けるこ とができなくなるという大きな益があります。数日ごとに、どのように主を受け 入れたかを思い出し、どのように主が自分に代わって死なれたかを思い出すなら、 もはやこの世の罪と一つになることはできなくなるでしょう。これが、パンをさ いて主を記念することの一つの益です。 パンをさいて主を記念することには、もう一つの霊的な益があります。それは、 神の子たちが争うことができないようにし、分け隔てたりすることができないよ うにすることです。あなたが、主イエスは自分の千万の罪をすべて赦してくださ ったことを思う時、別の姉妹が入ってきて、彼女も血による贖いを受けていると したら、どうして彼女を赦さず、彼女の誤りを思い出して、分け隔てることなど できるでしょうか? どの兄弟姉妹も主を記念する時には、自然に心が広げられ、神のすべての子たち を受け入れます。また、主に贖われた人はみな、主の愛しておられる人であるこ とを見て、自然に彼らを愛します。自分の多くの罪を主がすべて赦してくださっ たことを記念しながら、なおも兄弟姉妹と争い合うことは道理に合いません。あ なたが争い、ねたみ、憎み、赦さないなら、主を記念することはできません。で すから、集会で主を記念する時はいつでも、主はわたしたちにもう一度彼の愛を 学ばせ、十字架のみわざを学ばせ、救われた人はみな主が愛しておられる人であ ることを学ばせるのです。神のものである人はみな、神の愛しておられる人です から、当然すべての神の子たちはあなたが愛する人たちです。なぜなら、神の愛 しておられる人を憎むことはできないからです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第48巻「初信者を成就するメッセージ(二)」(1999年版) メッセージ第17編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。