福音は人にとって安息となる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ11:28 すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい。そうす れば、わたしはあなたがたに安息を与える。(29節)……あなたがたは魂に安息を 見いだすであろう。 ヘブル10:11 すべての祭司は日ごとに立って仕え、いけにえを何度も同じよう にささげますが、それらは決して罪を取り除くことができません。(12節)しかし、 この方(イエス・キリスト)は、罪のために一つのいけにえをささげて、永遠に神 の右に座り……。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 前に述べましたように、安息日は福音の予表です。福音の実際が来るとき、その 予表は過ぎ去ります。安息日の原則は福音です。ささげ物の原則が十字架である のと同様です。旧約でささげ物に用いられた牛や羊は、みな神の小羊である主イ エスを予表しています。主イエスが来られたので、牛や羊は用いられなくなりま した。もし人が今日も牛や羊を引いてきて、ささげ物にするなら、それは十字架 を認識していないことです。主はすでにささげ物となられたのに、どうして人が 牛や羊を再びささげることができるでしょうか? 同様に、福音もすでに来たの です。 人は福音によって神の御前で安息することができます。神は、ご自身の御子の十 字架上での贖いを通して、わたしたちのためにすべてのみわざを成し遂げてくだ さったのですから、神はわたしたちという人がまず何かをするように命令される のではなく、まず安息するようにと、彼の御子のみわざの上に安息するようにと 命じられたのです。わたしたちは何かをするために神の御前に来るのではなく、 安息するために神の御前に来ます。福音はわたしたちを神の御前で安息させるか らです。安息した後はじめて、神に仕えに来るのです。この福音の安息が来た後、 信者の上では牛や羊のささげ物が過ぎ去ったのと同様に、安息日も自動的に過ぎ 去りました。安息日は旧約における予表です。新約では、この予表はすでに成就 したのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第48巻「初信者を成就するメッセージ(一)」(1999年版) メッセージ第14編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。