文化の相違を廃棄する(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― コロサイ3:10 新しい人を着たのです。その新しい人は、それを創造された方の かたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあるのです。 (11節)その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スク テヤ人、奴隷、自由人はあり得ません。キリストがすべてであり、すべての中に おられるのです。 1コリント12:25 それは体に分裂がなく、各肢体が互いに同じ顧みを持つためです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 中国人は、はしを使って食事をします。インド人は手を使って食事をします。二 人が一緒に食卓について何回か食事をすれば、口では言わないにしても、心の中 では気持ちよくありません。二日もたてば我慢できなくなり、けんかになります。 これは文化の相違です。この文化の相違は真の障害となりますが、キリストの中 ではすでに消滅してしまっています。キリストの中にある人は、最も寛大な人で あり、どんな人の違いをも許容することができます。キリストの中にある人は、 自分の標準を設けたりせず、他の人たちがみな自分の標準に達することを要求し たりしません。自分の標準に合う人だけをよしとすることをせず、自分の標準に 合わない人をよしとしないこともしません。これは、キリストの中にある人が振 る舞うべき方法ではありません。そのような振る舞いは教会には属しませんし、 新しい人にも属しません。仮に、わたしたちの間の兄弟がインドやアフリカの出 身であるとします。彼らの文化とわたしたちの文化は同じではありません。しか し、わたしたちはただ一つの問い、すなわち、彼らが主の中にあるかどうかを問 うだけです。彼らも、わたしたちが主の中にあるかどうかを問うべきです。もし キリストの中にあるなら、すべての問題はただちに解決します。わたしたちはキ リストの中で接し、キリストの中で互いに愛し合うのであって、許容できないこ となど何もありません。わたしたちは、神の子供たちの間に何も入らせるべきで はなく、キリストにある兄弟姉妹を何によっても区別すべきでもありません。 (明日につづく) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第48巻「初信者を成就するメッセージ(一)」(1999年版) の第8編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。