からだは、かしらなるキリストが受けたものを受ける ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1コリント12:12 それは、体が一つであっても多くの肢体があり、体のすべて の肢体が多くあっても一つの体であるように、キリストも同様だからです。 詩篇133:2 それは、頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、 アロンのひげに流れて、その衣のえりにまで流れしたたる。(新改訳) ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第2編) 今日、人が油塗りを享受することは、個人が神の御前でどのようであるかによる のではなく、からだの地位に立っているかどうかによります。あなたがかしらの 下に立っているなら、油塗りはあなたに届きます。あなたがかしらの下に立って いないなら、油塗りはあなたに届きません。油塗りを受けることは個人の事では ありません。またそれはからだ全体の事でもありません。油塗りを受けることは、 からだの中にいる事と、かしらの下にある事です。 霊的な歩みにおいて、わたしたちは聖霊の力を必要とします。わたしたちには油 塗りが必要です。しかし、油塗りを得るのは、わたしが懇願する問題ではなく、 祈る問題でもなく、わたしとからだが正常な関係を持つ問題です。 聖書では、からだが油塗られたのではなく、ただかしらだけが油塗られたのであ ることを、わたしたちは見なければなりません。しかし、あなたはからだですか ら、かしらが油塗られたことは、あなたも油塗られたことです。油塗りはアロン の体に注がれたのではなく、アロンの頭に注がれました。しかし、油塗りは彼の 頭から、彼の衣のすそにまで、彼の全身へと流れ下りました。愚かな人だけが、 個人的な油塗りを求めます。愚かな人だけが、からだの油塗りを求めます。かし らに服し、かしらがわたしたちに立たせたい立場にわたしたちが立つなら、わた したちは油塗りを受けます。 (明日につづく) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第48巻「初信者を成就するメッセージ(一)」(1999年版) の第7編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。