献身の正しい見解を持つ ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ローマ12:1 兄弟たちよ、こういうわけで、わたしは神の慈しみを通して、あな たがたに勧めます。あなたがたの体を、神に喜ばれる、聖なる、生きた供え物と してささげなさい。それが、あなたがたの理にかなった奉仕です。(2節)またこ の時代の様にかたどられてはいけません。むしろ、思いが新しくされることによ って造り変えられなさい。それは、何が神のみこころであるか、すなわち何が善 であって、喜ばれ、完全なものであるかを、あなたがたがわきまえるようになる ためです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 人が自分自身を献身するかどうかは、その人が健全な救いの経験を持っているか どうかにかかっています。もし人が主の顔を立てて義理で主イエスを信じたとか、 神を優遇して神を信じたのであるなら、その人とは献身について話すことができ ません。わたしたちは覚えておかなければなりませんが、わたしたちに恵みを賜 ってくださったのは主であり、わたしたちにあわれみを賜ってくださったのは、 主です。わたしたちを愛し、わたしたちを救ってくださったのは、主です。こう いうわけで、わたしたちは自分のすべてを主に献身するのです。 主がわたしたちのようなしもべを持っておられることは、驚くべきことではあり ません。驚くべきことは、わたしたちがこのような主を持っていることです!  自分をささげるとは、選ばれたことの結果であることを、わたしたちは見なけれ ばなりません。神に仕えることは、わたしたちにとって誉れです。わたしたちが 神のために何かを犠牲にしたかのようにして、あるいは、もともと栄光のような ものがわたしたちにあったかのようにして、わたしたちは神をより一層高めるの ではありません。ささげることは、神がわたしたちに栄光を与えてくださること です。わたしたちはひざまずいて次のように言うべきです、「神に仕えることに おいて、わたしにも分があることを感謝します。ああ、この世にはどれほどの人 がいることでしょうか? それなのに、わたしは選ばれて、それに分を持ってい ます!」。献身とは、わたしたちの誉れであって、わたしたちの犠牲ではありま せん。わたしたちは最大の犠牲を被る必要がありますが、献身には犠牲という感 覚はありません。神の栄光の全き感覚があるのみです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第48巻「初信者を成就するメッセージ(一)」(1999年版) の第3編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。