主を食べ飲みすることによって主を記念する ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ22:19 それから、イエスはパンを取って感謝をささげ、それをさいて彼ら に与え、言われた、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である 。 わたしの記念にこれを行ないなさい」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― すでに指摘したように、このパンはわたしたちを養う主の体を象徴します。今日 のクリスチャンは聖餐式に参加する時、主イエスを養いとして自分の中に取り入 れるという認識を持っていません。彼はわたしたちに、パンを食べ、杯を飲むこ とによってご自身を記念するようにと言われました。これは単に記念することだ けではなく、主を享受することでもあります。このようにして主の食卓にあずか ることは、彼を食べ飲みすることです。この節によれば、わたしたちは主を記念 して食べるべきです。ですから、真の記念とは、主の生涯の物語を思い巡らすこ とではなく、彼を食べ、彼を取り入れることです。 主はご自身の体の象徴のために、一粒の小麦ではなく、パンを用いられました。 パンは、多くの穀粒が長い過程を経てパンとなったことを象徴します。まず、種 が畑にまかれます。すると、それは成長して、多くの穀粒を生み出します。小麦 が刈り取られると、穀粒はひかれて、きめの細かい小麦粉になり、混ざり合わさ れて一つの塊となり、オーブンで焼かれてパンになります。その時はじめて、わ たしたちは食べるパンを持つのです。主イエスは一粒の麦として(ヨハネ12:24)、 そのような過程を経過して、ついにはわたしたちが食べるための食卓の上のパン となられました。わたしたちは主の食卓に来る時はいつも、この認識を持つべき です。わたしたちは次のように言うことができるべきです、「主よ、今日あなた はわたしたちのパンです。なぜなら、あなたはわたしたちのために手順を経られ たからです。今やあなたはわたしたちが食べるための食卓の上のパンです」。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は 、ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(三)」(1997 年版)メッセージ第68編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。 *先ほど、10月26日水曜日の分のeMannaを間違って配信してしまいました。申し 訳ございませんでした。なお、明日の26日は配信をいたしませんので、ご了承く ださい。