キリストの十字架刑は過ぎ越しの成就である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ26:2 「あなたがたは、二日の後、過越になることを知っているが、人の 子は、十字架につけられるために渡されようとしている」。 1コリント5:7 ……わたしたちの過越であるキリストが、供え物としてほふら れたからです。 ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の所に来られるのを見て言った、 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 主は彼の弟子たちに、二日の後に過越になること、人の子は十字架につけられる ために渡されようとしていることを告げられました。ここの主の言葉の意義は、 彼の十字架が過越の成就であるということです。この過越が最後のものとなるは ずでした。過越は、千五百年以上にわたって守られてきましたが、今や過越は終 わらせられ、またある意味で、置き換えられるべきでした。過越と人の子の十字 架とを一緒にすることによって、主は彼の十字架が過越の成就であり、彼ご自身 が過越の小羊であることを暗示しておられました。 過越はキリストの予表です。出エジプト記第12章の過越による予表で描写されて いるように、神がわたしたち罪人を過ぎ越されるために、キリストは神の小羊と なられました。その予表の成就のために、過越の小羊としてのキリストは、過越 の日に殺されなければなりませんでした。 予表では、過越の小羊は過越の日に先立つ四日間、その完全さについて調べられ なければなりませんでした(出12:3-6)。キリストは十字架にかけられる前、エル サレムに最後にやって来られました。それは過越の六日前でした。そして数日間 、ユダヤ人の指導者によって調べられました。主には何の傷も見いだされず、完全 であり、わたしたちのために過越の小羊となる資格のあることが、証明されまし た。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は 、ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(三)」(1997 年版)メッセージ第68編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。