主のために目を覚ましながら、日々の義務を正しく顧みる(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ24:40 その時、二人の人が畑にいると、一人は取られ、一人は残される。 (41節)二人の女がうすをひいていると、一人は取られ、一人は残される。(42節) だから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日か、あ なたがたはわからないからである。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) 取られるとは、大患難の前に携え上げられることを意味します。この携え上げは、 主の来臨のしるし、ユダヤ人に対するしるしです。二人の人が畑で働いており、 二人の女がうすをひいているのを見るのは、非常に興味深いことです。畑で働く ことも、うすをひくことも、食べるためです。わたしたちの食べることと、この 世の人の食べることとの間には、違いがあります。この世の人々は学び、働き、 わたしたちも学び、働きます。しかしながら、この世の人は麻痺させられていま すが、わたしたちは麻痺させられていません。そうではなく、わたしたちは生計 を立てるために義務を果たしているだけです。わたしたちは、食べること、飲む こと、結婚のためではありません。その反対に、わたしたちが自分の存在を維持 するのは、十字架の道を取って、神の目的を成就するためです。わたしたちの関 心は、教育、職業、事業ではありません。 若者たちの何人かはこれを聞いて、次のように言うかもしれません、「わたした ちはこの言葉を聞いて、何とうれしいことでしょう! もう勉強や仕事を顧みな いようにしましょう。わたしたちのすべての時間を祈りと互いの交わりに費やし ましょう」。このような態度は間違っています。40節によれば、兄弟たちは畑仕 事をしており、41節によれば、姉妹たちはうすをひいていたことを覚えていてく ださい。穀物をひくことは非常な重労働です。わたしたちは熱心に働いて生計を 立てる必要があります。38節の食べることと飲むことは世俗的ですが、40節と41 節の畑仕事とうすをひくことは聖いです。もし取られた人たちが聖い事をしてい たのでなければ、携え上げられることはなかったでしょう。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(三)」(1997 年版)メッセージ第63編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。