わたしたちの心をもって主を敬う ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ15:8 「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離 れている。(9節)彼らは人の戒めを教えとして教えながら、むなしくわたしを礼 拝している」。(11節)口に入るものが人を汚すのではなく、口から出るものが人 を汚すのである」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 主は外側の儀式や規定を顧慮されません。彼は内側の実際だけを顧みられます。 主は内側の実際を顧慮されるのですから、わたしたちは集会を持つ外側の方法に 関心を持ちません。集会が騒がしいか静かであるかは、ほとんど意味がありませ ん。わたしたちはキリストの内側の経験、内側の実際だけを顧みます。わたした ちの手が汚れているかどうかは(マタイ15:2)、無意味な事柄です。重要なのは、 わたしたちの内側の各部分の状態です。 言い伝えに従う者は、外側で口先では主を敬いますが、彼らの心は神から遠く離 れています。言い伝えの外側の実行は、見かけは神のためのようです。しかしな がら、言い伝えに従う非常に多くの人の内側の存在は、実は神のためではないの です。クリスチャンの大多数は神のためにクリスマスを守っていると、あなたは 思うでしょうか? 一見すると、そのようでしょう。実は、クリスマスを行なう ことにおいて、多くの人の心は主のためではありません。言い伝えとは、心に実 際がないのに、口先で言う事柄です。 9節は言います、「彼らは人の戒めを教えとして教えながら、むなしくわたしを 礼拝している」。これは、神にささげる礼拝にもむなしいものが存在することを 啓示しています。その主要な原因は、人の戒めの教えです。わたしたちは、真理 である彼の言葉にしたがって神を礼拝しなければなりません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(二)」(1997 年版)メッセージ第45編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。