新しい衣を持つことによって資格づけられる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― イザヤ64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの不義はみな、不潔 な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎(とが)は風 のように私たちを吹き上げます。(新改訳) ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 主はわたしたちに、花婿がわたしたちと共におられると言われます。しかし、あ なた自身を見てください。あなたは彼の臨在に値するでしょうか? 神の目に、 あなたの真の状態は花婿の臨在に値すると思うでしょうか? わたしたちはみな 「いいえ」と答えなければなりません。わたしたちが持っているすべて、わたし たちであるすべては、主の臨在に値しません。主の臨在を享受するためには、あ る資格を必要とします。わたしたちはある条件の中に、ある状況の中にある必要 があります。わたしたちが生まれつき何であろうとも、天然的に何であろうとも、 わたしたちに何ができようとも、わたしたちが何を持っていようとも、それらは わたしたちが花婿の臨在の中にいるよう資格づけません。花婿はキリストであり、 キリストは神ご自身です。神が今日あなたに現れたとしましょう。あなたはそこ に座っていることができるでしょうか? 彼は聖なる神、義なる神であり、その ような方が花婿であるのです。 わたしたちはマタイによる福音書第9章のこれらの節の文脈を思い出さなければ なりません。主イエスは取税人や罪人と一緒に食事をしておられました。わたし たちは「取税人」や罪人です。わたしたちには資格はありません。わたしたちは、 わたしたちを覆うものを必要とします。それによってわたしたちは主の臨在の中 に座すことができます。こういうわけで、主はご自身を花婿と言われた後、わた したちは新しい衣を着る必要があることを彼は告げられたのです。わたしたちが 新しい衣を着る時、わたしたちは彼の臨在に値します。罪人であり「取税人」で あるわたしたちは、新しい衣を着せられて、花婿の臨在に値する者とされる必要 があります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(二)」(1997 年版)メッセージ第28編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。