思い煩いのない命を生きる(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ6:25 だから、わたしはあなたがたに言う。自分の命のために何を食べよ うか、何を飲もうかと、また自分の体のために何を着ようかと、思い煩ってはな らない……。(26節)空の鳥を見なさい。それらはまくことも、刈ることも、倉に 集めることもしない。それなのに、あなたがたの天の父は、それらを養っておら れる。あなたがたは、それらよりもはるかに貴重な者ではないか? ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第2編) 若い人たちはこの言葉(思い煩わないことについての言葉)を聞くと、次のように 言うかもしれません、「ハレルヤ! 主イエスが、人の生活の歯車である思い煩 いに触れてくださったから、わたしたちはよく勉強することも働くことも必要あ りません。空腹になれば、残り物を食べればよいです」。この観念は間違ってい ます。 主は、若者たちが学校を卒業することを意図されるのでしょうか、それとも中退 して空の鳥のようになることを意図されるのでしょうか? 思い煩うことは誤り です。なぜなら、思い煩いは神聖な命に属さないからです。神の命には思い煩い はありません。しかしながら、主は、わたしたちが自分の義務を果たすべきでは ないと言っておられるのではありません。主がイスラエルの子たちを良き地にも たらされた時、彼らすべてはその地で働かなければなりませんでした。それは彼 らの義務でした。良き地が豊かな収穫を生み出すかどうかは、天候、日光、適度 の雨、適切な温度など、多くの事にかかっていました。これらのどれも、イスラ エルの子たちの制御の下にありませんでした。彼らの責任は、その地で労苦する ことでした。彼らは自分たちのためだけでなく、鳥のためにも働きました。もし 彼らが農作業をしなかったなら、鳥が生きることは難しかったでしょう。彼らが 義務を果たすことは正しく、また必要でしたが、思い煩うことは間違いでした。 同じように、わたしたちは今日、義務を果たさなければなりませんが、生活につ いて思い煩うことなしに、それを行なわなければなりません。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(一)」(1997 年版)メッセージ第22編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。