思い煩いのない命を生きる(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ6:31 こういうわけで、『何を食べようか? 何を飲もうか? 何を着よ うか?』と言って、思い煩ってはならない。(32節)なぜなら、これらの物はすべ て、異邦人が切に求めているからである。あなたがたの天の父は、これらの物が すべてあなたがたに必要であることを、ご存じなのである。(33節)まず神の王国 と神の義を求めなさい。そうすれば、これらの物はすべて、あなたがたに加えて 与えられる。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第1編) 多くのクリスチャンは、御言のこの区分、すなわちマタイによる福音書第5章と 第6章を理解していません。なぜなら、彼らはそれが神聖な命と性質に基づいて いることを見ていないからです。多くの未信者でさえ、これらの章はすべての人 類に対して語られた言葉であると考えて、これらの章の節を彼らの文書に引用し ています。そうではありません。犬は飛ぶことができないように、人の命は天の 王国の憲法の要求を満たすことはできません。これは神聖な命と神聖な性質に基 づいた憲法です。 神聖な命と神聖な性質には何の思い煩いもありません。思い煩いは神聖な命のも のではなく、人の命のものです。それは、ほえることが犬の命のものであって、 鳥の命のものではないのと同じです。わたしたちの人の命は思い煩いの命ですが、 神の命は享受、安息、慰め、満足の命です。神にとって、思い煩いは奇妙な言葉 です。彼には、思い煩いのようなものはありません。あなたは神がかつて思い煩 ったことがあると思うでしょうか? 彼はかつて思い煩いに悩まされたことがあ るでしょうか? 神は多くの願いを持っていますが、思い煩いは持っておられま せん。その反対に、わたしたち人の命は事実上、思い煩いから成り立っています。 それは思い煩いで構成されているのです。ろう人形館の人形やカトリック大聖堂 の前にある像には、何の思い煩いもありませんが、あなたが生きている人である 限り、思い煩いから逃れることはできません。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(一)」(1997 年版)メッセージ第22編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。